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I never forget

Xenon 5cmF1.5
今日の移動先はモスタルと言うボスニア・ヘルツェゴビナの町です。
昨日確認したバスの時間は朝と午後、所要時間は3時間と言うので、朝のバスでお昼に現地着の予定です。
昨日はドブロブニク着が暗くなってからだったので旧市街はバスの窓から眺めただけでしたが、今朝も早く出るので20年も前からいつか訪れたいと考えていたこの地にはついに足を踏み入れることなく終わってしまいました。
昨日は携帯がおかしくなったと書きましたが、半日放っておいたら何故か直っていて、目覚ましも作動しました。
昨今の携帯は、壊れても無暗に触らず、放置しておくのが好いということでしょうか。
お世話になった宿には最後の最後に面倒を掛けることになってしまいました。
宿のすぐ前のバス停からバスターミナル行きのバスが7時15分に出るのでそれに乗るよう言われていたのですが、7時ころコーヒーを淹れてもらってのんびり飲んでから7時10分過ぎに別れを告げてバス停に行ったものの、バスは待てど暮らせどやって来ません。
10分待って来なかったので、宿に戻りバスが来ない旨告げましたが、大丈夫待ての返事。
さらに20分待ちましたが来ないのでもういちど宿に戻ると、おばさんがびっくりした顔をして急がないともう間に合わないと言って、車のキーを取り早く乗ってとわたしを促します。
孫のいる推定60歳のおばちゃんでしたが、レーサーモードにスイッチが入ったかのように愛車のVWポロを飛ばします。
さっと車線変更したり、前の車にぴったりくっついたり、こちらは恐怖で足を突っ張り放しでした。
5分前に着いたのでそれほどギリギリではなく、あんな運転をする必要があったとは思いませんが、いずれにしてもバスが来なかったのを救ってもらい感謝しなければ、です。

すでに東欧でのバス移動のエキスパートになっているわたしは、3時間の行程が物足りなく感じるくらい快適にモスタルに到着しました。
国境を越えているのでまずは現地通貨マルクをATMで引き出し、明日のバスチケットを購入します。
最終目的地リュブリャーナへは直行バスがなく、クロアチアのザグレブで乗り換えとのこと。
朝6時55分発、夜7時半着だと言うので実に12時間35分の行程です。
さすがにこれはくたびれそうですね。
続いて予約しておいた宿を探しますが、なかなか見つかりません。
ツーリストインフォメーションで住所を見せますが、そんな通りの名は聞いたことがないと調べてもくれないのです。
途方に暮れていると土産物屋の兄さんが宿が見つからないのかと近寄ってきます。
やはり住所には心当たりがないと言いますが、メールに記載されていた番号に電話してくれ場所はすぐに分かりました。
着いてみるとその通りはとても短く、家が数軒あるだけです。
これじゃあ誰も知らないでしょうし、グーグルマップにだって記載されていません。
宿はあらかじめ予約した方がいいのか、現地で見つければいいのか、その町によるということはありますが、わたしは現地で探す主義を貫徹すべきだったと後悔しました。

宿にはご主人がひとりいてあいさつしますが、英語はほとんどできず、逆にドイツ語ができないかと聞かれてしまいます。
ナインと答えるとナインがすでにドイツ語なので笑われてしまいます。
ブルガリアとウクライナで経験済みの片言ドイツ語による会話でしたがこんなんでも意思の疎通が十分できるものですし、いま出ている奥さんは英語が得意というので問題ありません。
この宿は一般家庭の空き部屋を貸すペンションで、旧市街まで1分の至近にありながらメインストリートの反対側に位置するためとても静かで、インフォでも住所が分からなかったことを除けば最高のロケーションと言えます。
モスタルには旧市街に高い橋があって、この町の象徴のようになっていますが、それが部屋の窓からよく見えました。
しかし、コトルもドブロブニクもそうですが、観光客があまりに多すぎます。
やはりアジア各国の団体がいっぱいになって道をふさいでいる状態では散策しても楽しいはずもなく、早々に引き上げて部屋でひとり洗濯に勤しみました。

ボスニア・ヘルツェゴビナというと、わたしは1990年代初頭のユーゴ内戦で戦場になったサラエボの映像が20数年経った今でも頭を離れません。
爆撃で半壊した建物や銃弾の跡が生々しい壁などはそのまま残されていると聞きました。
それを見にサラエボまで行くかとも考えましたが、その必要がないことに気付きました。
今いるモスタルでも市街戦があったようなのです。
旧市街が美しかったので最初は気付けませんでしたが、少し離れた場所には破壊された建築物が散見されました。
さらに外れではいくつかのまだ新しい墓地があるのにも気付きました。
近くのモスクの脇の墓地に入って墓標を読みます。
没年が1993年となっていて、隣のをみるとやはり1993年、隣も、また隣もすべてがすべて1993年でした。
一列に並んだ墓の没年表記がまったく同じということに、言葉に言い表せないショックを受けました。
前の列も、後ろの列も、墓地の中に200以上はあるだろうすべての墓が、同じ1993を示していると考えると言いようのない恐怖を感じます。
今もこの町のどこかで穏やかに暮らしていて、すれ違ったり会話していたかも知れない人たちが、わたしの足の下に眠っているのです。

宿に戻ると奥さんがいたので、もし辛ければ話を止めて欲しいと断って墓地を見たという話をしました。
しかし、彼女は遮ることなくわたしの話を聞いてから、そうです、あなたの見たとおりですと答えました。
ただし、彼女たち家族はその前年、ドイツに移民として移り難を逃れ、情勢が落ち着いてからモスタルにもどったそうです。
そう聞いて初めて、鈍いわたしでもご主人がドイツ語を話せた意味が理解できました。
彼女もドイツにいて詳細は知らないがと断りつつ、この町が爆撃に晒されたと話してくれました。
戦闘が終わってほどなくして戻った時、家は無残な姿に変わっていて、彼女は何日間も泣いているばかりだったと言います。
わたしたちはハグし、静かに涙を流し合いました。
モスタルを訪れるということは、同時に重い十字架を背負うことをも意味しているようです。

もともと胃が不調なところに、つらい話をしてもらって、とても食欲はありませんでしたが、彼女の知り合いがやっているというレストランを訪ね紹介してもらいました。
小さな店は満席でしたが、時間が遅いのでウェイトレスはすでに帰宅して女性ひとりで切り盛りしています。
彼女のつくった土地の肉料理は美味しく、お腹いっぱいになって会計すると、近くで遊んでいた10歳くらいの女の子が片付けを始めました。
ひとりではなく娘が手伝いしていたのですね。
おとなびた仕草がかわいくて、見ていて少し明るい気持ちになりました。
手元にあった日本から持参の飴をチップですと手渡すと、照れる姿がまた可愛らしい。
母子のおかげで救われた気持ちになりました。
さて今日の作例は、よく知られたモスタルの橋の風景、ではなく、左下にあったわたし宛のメッセージとしました。
なぜ、これがあったのか、なぜ、わたしはこれを見つけたのか、今となっては不思議だとしか言いようがありません。
もちろん、モスタルで見た衝撃は、けっして忘れることはないでしょう。
【α7/Schneider Xenon 5cmF1.5 F1.5】
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thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Schneider Xenon 5cmF1.5 | trackback(0) | comment(2) | 2015/10/03 Sat
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Comment

驚きました!
ええっ!
あと1年!??
そうすると、今回帰国して、次に旅立ったら、
当分帰ってこないのでしょうか?
すごい決断ですね。
だとすると、関西出発便で、
会う機会ができたら、いいのですが。
それにしても、中将姫光学さん、どんどんたくましい精神になるようです。
そんな風に挑戦し、変わっていけるって、羨ましいですねえ。
2015/10/19 Mon| URL | sha-sindbad [ 編集 ]
sha-sindbadさん、コメントありがとうございます。
いえいえ違います。
旅は2月下旬にスタートして、月に1度は帰国しながら西に向かってなるべく陸路か航路で進んでいます。
来年の2月初旬に日本に戻って旅が完結します。
一応、1年掛けた世界一周のつもりです。
文章書く時間がなかったり、WIFI環境がなかったり、PC壊れたりでブログの更新は遅れがち、リアルタイムになってませんこと、ご容赦ください。
2015/10/21 Wed| URL | zunow [ 編集 ]

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