彼女の名はミハエッラ

Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5
朝から観光客の車の音で目が覚め、同時に興醒めしました。
シギショアラの旧市街は城壁に囲まれた高台にあって、入り口のところに大きな駐車場があります。
心ある人はそこに停めて坂道を上がってくるのですが、面倒くさがりや老人のいる家族連れなどは構わず城壁の中まで車で入って歴史的建築物の真ん前でも平気で駐車します。
アルプは5時起きで撮影に出れば人もいなくてよいと言っていましたが、これだけ車が停まっていてはそれも意味が無いとわたしは撮影を諦めました。
ここにいること自体に意味が無いような気がして、出発することにしました。
アルプに会えず、別れを告げられなかったのが心残りです。
そういえば昨日は書き忘れましたが、この宿の女主人は片言の英語はできましたが、わたしにフランス語はできないかと聞いてきました。
わたしは第二外国語がフランス語だったのですが挫折しているので、ノンと答えておきました。
いっしょに飲んだおじさんはイタリア語、やっと見つかった宿のおばさんはドイツ語、そして今回の宿のおばさんはフランス語と、ブルガリア、ルーマニアでは英語よりもヨーロッパ言語のいずれかを勉強していた方が役に立つということがまたしても証明されてしまいました。

ツーリストインフォメーションでスチャヴァ方面へ行きたいと相談すると、バスを乗り継げば今日中に着けるとのことです。
ただし、乗り継ぎ時間が15分しかなく、しかもバスターミナルが違う場所にあるので頑張ってねと、地図をくれました。
地図を見ると500メートルほどしか離れていないので、時間通りなら乗り継ぎは問題ないでしょう。
シギショアラのバスステーションは駅の隣だそうで、行きにタクシーで来たので歩いて30分かかると覚悟していたのですが、わずか15分で到着してしまいました。
アルプは勘違いしていたのか3キロあると言っていましたが、わたしは道を間違えたのに15分ですからせいぜい1キロしかなかったのでしょう。
途中、道を聞いた時ルーマニア語しか分からないと言いながら、前方を指さして、トレ・センテ・メートルと教えてくれました。
恐らくほかのほとんどの言語では何メートルと言っているかなんて分からないでしょうが、
ルーマニア語では300メートルだと誰でも分かるところがたいへんありがたいです。

バスの中では大学生の青年が助けてくれて、次のバスが発車するバスターミナルで降ろしてくれるよう運転手に頼んでくれて、バスの乗り継ぎの問題も解消されました。
青年はドイツ系の出自だそうで、ルーマニア語がフランス語やイタリア語に似ていると言うと、そうなんですか知りませんでしたと少し驚いていたのが、わたしには不思議でした。
青年は、学生や若い人ならみな英語ができるので困ったら聞くようにとアドバイスしてくれます。
しかし、わたしがルーマニアに来てから、わたしが聞いていないのに、どうしましたかとたずねられるケースがすでに5回もありました。
まったくの想像ですが、チャウシェスク政権の崩壊後、民主化の波が押し寄せ、まず我々に必要なのは英語であると教育に取り入れられ、社会主義で忘れられていた人に親切にすることを実践しようと考えたのではないでしょうか。

ムレスという田舎の中心の町からスチャヴァというやはり田舎の中核の町まで、バスはひたすら農村をいくつもつないで走り、人が降りては乗るを繰り返します。
6時間の行程ですから運転も相当たいへんだなと思います。
途中から乗車してまたしばらく先のバス停で降りる人の運賃を把握できるものなんでしょうか。
さすがに何度か眠ってしまいましたが、道路沿いの教会の庭で結婚式の人たちを見たり、荷馬車がゆっくり走っている後が渋滞になっているのを見たり、民族衣装でしょうか派手なスカートのおばあさんは何度か見たりしました。
あと、1時間で到着というところで、最前列の女性が下車してしまい、始発から乗って来たのはわたしと運転手だけになってしまいました。
しかし、スチャヴァは大きな町なので、途中から乗った乗客でほとんどいっぱいになっています。
終点のバスターミナルで下車時に運転手へ日本語でお疲れさまと思わず言ってしまいました。
ホテルを探さないとときょろきょろしていると、早速、若い女性が何を探しているのかと聞いてくれて、この先のラウンドアバウトの先にあると教えてくれ、その中でいちばん安かった100レイの宿に荷を降ろしました。

さて、その女性もそうでしたが、ホテル付近の広場や公園にいる女性という女性がみんなきれいです。
子どももみんな美少女だし、当然、男の子も美少年ばかり。
地図で見るとスチャヴァは北に50キロも行くとウクライナ、東はモルドバがすぐそこで、ハンガリー、ブルガリア、さらにはトルコの血もかなり入ってきています。
民族の血が混じることで美人が多くなるのは南米の例でよく言われることですが、このあたりの人々も同様なのでしょうか。
わたしのいちばんよく知るルーマニア人はゲオルゲ・ハジというルーマニア代表を率いて90年代に活躍した名選手です。
彼はちょっとアクの強そうな美少年とは言い難い顔つきでしたが、こういうタイプの顔の人もルーマニアでは数多く見ることができます。
女性ではあまりこういう濃い顔の人は見ないだけに、男女差に不思議なものを感じます。

わたしの世代でルーマニア人というと真っ先に思い出すのが、ナディア・コマネチです。
心奪われた日本男子は多かったかも知れませんが、わたしはどんな顔だったか思い出せません。
しかし、彼女の愛称が「白い妖精」だったことはよく覚えています。
ブラショフ、シギショアラ、スチャヴァと歩いてみて、白い妖精と呼びたくなるような女性や少女があまりに多かったので、コマネチ・ジェネレーションの男性がルーマニアを旅したら狂喜することは間違いありません。
作例の少女は、そんなひとりですが、シギショアラの町中で頼んで撮影させてもらいました。
ルーマニアにはこんなにも美しい少女がいるということを日本に知らしめなければわたしが旅行に来た意味が無いと真面目に言ったら、素敵な照れ方をしてくれました。
ほんとはその時の顔を記録したかったのですが、カメラを向けると表情は一変してしてしまい、なかなかこれぞという風には撮れないものです。
【Alpha7/Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5 F5】
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thema:ペッツバール genre:写真
Holmes, Booth & Haydens 20.5cmF5 | trackback(0) | comment(4) | 2015/08/30 Sun

写真はLAWでなければダメなんだ

Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5
ブラショフは美しい町でしたが、金曜の夜に着いたのはタイミングが悪すぎでした。
町中は地元の人と観光客で溢れていて、アジアからの貧乏旅行者が入り込む隙間が見出せません。
町が魅力的に見えたのでもう1泊しようかとも考えたのですが、土曜の夜が昨夜より静かとも考えられず、撤退するようにここを去ることにします。
むかし本で読んだドラキュラ伯爵の住処がこの近くのお城だったはずですし、ハンガリーと奪い合ったトランシルバニア地方の中心として独自の文化が数多く残るとも聞いています。
せめてもと思い午前中を散策にあててから、駅方向に戻りシギショアラ行きのバスを待ちました。
近くのレストランがトランシルバニア伝統のバイを民族衣装の女性が給仕してくれる写真を掲げていたので入ってみました。
パイの具の種類が多くて悩みましたが、牛のミルクのチーズにしてみると確かに美味しいものの量が多すぎて途中で飽きてしまいます。
日本のピザのようにクォーターにしてもらえるといろいろ楽しめて旅行者としてはありがたいのだがと思いました。

1時発だと言われたバスは時間になってもやって来ません。
インフォメーションに行って聞くと、1時が来ないなら次は2時だと悠長な返事でした。
1時がなぜ来なかったのか分かりませんし、2時が来るという保証もなしで、鉄道駅の方に行ってみました。
20分後に始発列車があるとのことで、バスは見限って、2両編成の鈍行列車で向かいます。
車両はすべてコンパートメントで、6人掛けにひとりでどっかりと座っていました。
すると、妹を連れた女の子がやってきて、何やら言っていますが理解できず、それならと写真を撮らせてもらいました。
それが実は大失敗で、彼女たちはベガーだったのです。
ベガーという表現で正しいのか、彼女たちは乞食という悲惨なものては無く、物乞いと呼ぶか悩みましたが、もうちょっと軽い感じで、乞食も物乞いも総称しそうなベガーという言葉を使うことにします。
彼女がカバンを物色しては、あれくれこれくれと来て、断り続けると母親が来て止めてくれるのかと思えば、彼女も娘たちに食べさせるものが無くてとジェスチャーして加勢するのでした。
カバンのポケットに飴を入れていたので、それを出してあげたのがさらにまずく、それで退散すると思えば脈ありと感じたのでしょう、しつこさが増すばかりでした。
ベガーには毅然として断るに限るようです。
カバンのポケットから航空機内で配られるウェットティッシュを見つけ出して、勝手に開けて顔を拭くや、その香りが気に入ったようで、突然わたしに向かってウィンクしながら投げキッスしました。
母親がそういう手も使えと教えるのでしょうか、彼女たちは切符を買って列車に乗っているのですから、まったく困窮し切ってということではないと思うのですが、とにかくダメもとでもらえるものはもらえというポリシーなのだとしか考えられません。

100キロ少々を2時間半かかってシギショアラに到着しました。
出口に向かって歩いていると男性から声をかけられました。
中心部まで行くならタクシーをシェアしようということのようで、わたしにはありがたい申し出です。
彼が交渉して6レイが5レイになり、彼が3レイ、わたしは2レイ払ったので下がった1レイはわたしのもうけになりました。
彼の名はアルプ、山好きと言っていたのでアルプスにちなんだニックネームか本名かはよく分かりません。
イスタンブールで歯医者さんをしているそうですが、以前はアンカラで総理大臣の奥さんの専属をしていたものの、総理から電話1本で他の患者をキャンセルしてわがまま夫人を看るのが嫌になって、イスタンブールで開業したとのこと。
趣味は写真で、彼はブラショフ駅で奇妙なレンズを付けた国籍不明の男が、さらには古いカバンで旅しているのに興味を惹かれ、写真の話もできるぞと声を掛けたのだと説明しました。
ペッツバールレンズとトランクがいちばん役に立った瞬間です。

彼は25ユーロですばらしい宿を予約したので、空いていればいっしょの宿はどうかと提案してくれました。
しかし、部屋に空きは無く、その宿の紹介で近くに同値段で泊まることになりました。
あとでアルプと話しましたが、どうも宿が高すぎでボラレている雰囲気です。
宿はペンションで空き部屋を貸しているだけなので、25ユーロはいかにも高すぎ、わたしの感覚なら半額で泊まれそうなところです。
彼とは夕食の約束をしていったん別れました。
シギショアラは保存状態の好い、中世がそのまま現在に残ったような小さな町です。
たぶん平日に来ていたら町のすばらしさに興奮しまくっていただろうと思われますが、今日は観光客でごった返していて印象はよくありません。
せっかくの中世の雰囲気が、車が自由に出入りできることなどでぶち壊しです。
むしろここでよかったのは、町はずれで蜂蜜のマーケットを2日限定でやっているのに出くわし、トランシルバニアの森の木の蜂蜜という、栄養価が特別に高い珍しいものを味わえたことです。
さらにこの地方の伝統的な生菓子の販売があったので食べてみると、食感の好いチーズケーキのような味わいは、日本に持ち込んだら絶対に売れるだろうものでした。

夕食は宿のそばが混雑していて、先のマーケットの近くに見つけたレストランにアルプを案内しました。
ここはホテルそばより安くて味の満足度が高く、アルプからわたしの嗅覚の鋭さを褒められました。
続いて、彼の写真にわたしが驚愕する番でした。
彼は前日ドラキュラ城に宿泊して、車で少し走り山道を1時間近く歩いたところで撮影したそうですが、完全に隔離されたような高原の村での人々の伝統的かつ牧歌的な朝の生活が写っていました。
山の写真と聞いたので退屈な山々の自然な姿を撮影しているのかと思っていたのですが、彼の写真は人間の営みが主題で、わたしが撮りたいと考えて果たせないでいるているそんな写真ばかりでした。
どうやってこんなところへと聞くと、昨年、モロッコを旅したときにルーマニアの写真家と知り合って意気投合し、今回、招待されてその写真家でなければ知り得ない場所に案内してもらったそうです。
彼には土日は結婚写真の撮影の仕事があるので、アルプはひとりでシギショアラに来てわたしと出合ったということでした。
わたしも自分の旅について紹介し、イスタンブールは飛ばしてしまったというと、今度また来ればわたししか知らない場所に案内するのでいっしょに撮影しようと言ってくれます。

彼の写真に対するこだわりは尋常ではなく、わたしがJPEGで撮影していると言うと怒りを露わにして、それでは好い写真ができないと自分の写真を使って説明しました。
おもにホワイトバランスや明暗の露出の調整ですが、確かに見せるための写真としてそのような手続きが重要なことは理解できます。
しかし、私は反論します。
個人で楽しむための写真を考えた場合、よい比喩とは言えないかも知れませんが、自分の奥さんが整形美人でも美人ならいいのかと考えてしまいます。
徹底した整形でも美人の方が好いという人はいるでしょうし、必要最小限の整形なら何の問題もないという人もいるはずです。
いや整形はダメだが化粧ならいくらしても構わないという人は多そうですが、わたしの現時点での意見は、素顔がきれいなら整形はもちろん化粧だっていらない、です。
じゃあ、お前は化粧を必要としないような写真が撮れているかと言えば、申し訳ないと詫びるばかりですが、それでも1年に若干枚程度はすっぴんで通用する写真があると思っていると心苦しくも自負しているので、それでわたしには十分ですと逃げることにします。
作例は、シギショアラで見かけた結婚写真の現場です。
モデルが美男美女なのでこれで全然構いませんが、さすがにこれは年若干枚と自負できる写真にはなり得ないのが残念なところです。
【Alpha7/Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Holmes, Booth & Haydens 20.5cmF5 | trackback(0) | comment(2) | 2015/08/29 Sat

北駅から汽車に乗って

Nikkor 5cmF1.5
5時半に起きてシャワーを浴び、寝静まったホテルを出ました。
チェックインしたときはラブホテルのように感じられましたが、きっとドイツ語堪能な女性オーナーの赤やピンク好きが高じて内装が可愛らしくなっただけで普通のホテルなのだと思いなおしました。
早すぎてその女性とは会うことができず、小さな声でヴィーダーゼーエンと言ってバスステーションに向かいます。
この地方の主要都市であるルセまでのバスが6時45分と7時10分にあったので、早い方のバスに乗りました。
少し小型のバスで乗っている10名ほどはみなお年寄りです。
車がないと生活しづらいブルガリアの地方ではこういうバスに乗るのは老人と決まっているようです。
隣村の名前がガゴボとポポボの姉妹のような名前でしたが、美しい教会とモスクがあって、ここにはホテルもレストランもなさそうなものの、こちらに泊まりたかったと後悔させます。
この辺一帯にはブドウ畑があって収穫の最中でした。
生食用かワインになるのか分かりませんが、作業をじっくり見られなかったのも残念です。

1時間半でルセのバスターミナルに到着しました。
町の規模の割には小さなターミナルですが、英語の通じるインフォメーションがあって、ルーマニア方面はブカレスト行きがあり、次の便は12時半と教えてくれました。
チケットは1500円ほどと予想された価格で国境を超えると使えなくなるブルガリア・レフの残額が昼食とビールでちょうどなくなる計算通りです。
ただ、想定外だったのはバスの時間で、4時間近くも空いてしまいます。
荷物を預けて、ルセの町を散策してみることにしました。
バスターミナルの隣が鉄道駅で、その前にバスが停まっていて、女性運転士に聞くとルセの中心まで行くというので飛び乗りました。
この1レフ出費のために昼食代がなくなり再度ATMで降ろさなければならなくなりましたが、中心部でトクダ銀行という日本の医療法人のような銀行を見つけて最低額の700円相当を降ろし、余る部分はお菓子を買ったりして使い切りました。

ルセの町はポポボなどより見どころの多い、ドナウ川を隔てて対岸がルーマニアという国境の町なので、4時間あっても足りないくらいです。
この辺りかというところでバスを降りると、自動車が入れない大通りがあって、まさしくそこがルセの中心部でした。
少し歩くと恐らくブタの皮を空気で膨らませてそれを出すことで音を奏でる民族楽器を演奏するおじさんがいました。
写真を撮るポーズをするとオーバーアクションで演奏して、歌まで披露する歓迎ぶりで、まだATMに行く前だったので、手前に置かれたケースに1ドル札を入れると、脇に座っていた仲間となんでドルなのとばかりあれれという顔で笑っていました。
しばらく歩くとツーリストインフォメーションがあって、バスターミナルまで歩いて20分ほどだというので、それに合わせてのんびり付近を散策しながら戻ることにしました。
バスでちょうどいい位置まで行って歩いて戻るというのは、待ち時間の使い方としてはベストだったでしょう。

ブカレスト行はバスとなっていましたが、やって来たのは9人乗りのワゴン車でした。
乗客はブルガリア人が3人、ドイツ人旅行者2人とわたしで、運転手を含めて全員が20代と若く、わたしはアジア人だからということよりも、歳のせいで浮いている感じがしました。
100キロほどしかないブカレストまで2時間半くらいかかると言われます。
ドナウの橋のところでつかえていましたが、所要時間の半分は出入国の混雑に時間を取られるということのようでした。
トルコからブルガリアの国境では全員がバスを降りて出入国審査を受けましたが、ここでは車に乗ったままなのが香港深圳間と似ています。
ブルガリアの出国は素通りで、ルーマニアの入国はパスポートをチェックします。
ブルガリア人はパスポートではなくIDカードで入国していました。
わたしとトルコ系と思われるドイツ人のうちのひとりが引っ掛かったようで、車に乗ったまま待たされますが、10分ほどかかってパスポートにスタンプをもらい無事にルーマニア入国です。

ルーマニアはEUに加盟しているようですが、運転手によればユーロは導入されておらず、通貨はレイ(単数形はレウ)というそうです。
ブルガリアのレヴァ(単数形はレフ)と似ています。
ローマ人の末裔を名乗るだけあってルーマニアの言葉はラテン語系の言語に似ているようです。
ワゴン車はバスターミナルではなく市街の中心で降ろされ、ソフィアよりはるかに都会だったブカレストには滞在したくないわたしはブラショフという町を目指すため、地下鉄でガラデノルデというところまで行くよう言われたのですが、ガラドノルドはGara de Nordeと書くと表示されていて、フランス語のできないわたしにもフランス語の北駅とそっくりだと気付かされました。
果たして着いたのは国鉄ブカレスト北駅で、ここからはブラショフ行きのバスがなかったので、鉄道で行くことにしました。
地下鉄のアナウンスでアテンティエのように聞こえるのがあり、これはアテンションのルーマニア語だろうと想像できるなど、少なくともブルガリア語よりはとっつきやすい言語なのではと思われました。
通貨のレウが複数形でレイになるのもイタリア語に通じますし、何しろキリル文字でなくなったことだけでもわたしには大助かりでした。
ルーマニアもビールが安くて350mlのものが100円程度でしたし、大きなチーズとハムのパンは60円でしたので列車の中でいただいたらすぐに眠くなってしまいました。
となりのルーマニア娘は早々に寝ていたのですが、彼女がよっかかってきていて淡い香水の香りにわたしも熟睡してしまいました。

およそ3時間後の7時半に到着しました。
熟睡の女の子がこのバスで中心部に行くと案内してくれたところまで順調でしたが、それからがたいへんでした。
簡単に見つかると思っていたゲストハウスや安ホテルが無く、金曜の夜でごった返す人波をいくらかき分けて進もうともそれは見つかりませんでした。
2時間近く彷徨ってヘロヘロになり、多少高くても泊まるかと思って聞いた中心部のホテルは1万円オーバーでやめて、レストランに入ってWIFIで予約サイトからホテルを見つけました。
ルーマニア料理を楽しみにしていましたが、そのレストランはイタリアンでした。
イタリアはルーマニア人から見れば兄弟のようなものなのでしょうか、店のどこにもイタリアの文字は無く、メニューを開いて初めて気付いたのですが、さすがにここへ来て引っ込みつかず腹を据えてオーダーしました。
野菜のクリームスープ、パルマハム、カルボナーラで1000円ちょっとの計算でしたが、グラスワインが高く、しかも美味だったのでおかわりしてしまい、2000円オーバーです。
ちなみにパルマハムはたったの200円で量はそこそこあって、元を取るために翌日のランチでハムとパンとワインだけ頼んでやろうかと思いました。
最高級ではないのでしょうが、久しぶりの生ハム&ワインはイスラム圏では絶対にないものなので、舌鼓を打ちながらありがたくいただきました。
作例は、ブラショフの町並みです。
宿探しに懸命で、こんなものしか撮影はしていませんでした。
そういえば、卒業旅行でヨーロッパに初めて来たとき撮っていたのも、こんな捨身ばっかりだったのを思い出しました。
【Alpha7/Nikkor S・C 5cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Nikkor S・C 5cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/28 Fri

ドイツ語で宿探し

Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5
朝焼けで目が覚めました。
朝の眺望を楽しもうとあえてカーテンを引かずに眠りに着いたのですが、果たしてベッドから窓越しに、はるか対面の山々が暁の明かりで縁どられているのが幻想的な美しさで迫ってきたのに感激しました。
まだ6時半で外気温は13度を示しています。
部屋の中はずっと温かいので寒さを感じず、起き上がって散策に出ました。
さすがにかなり寒かっのですが、これから出勤に向かう人々はみな、わたし同様、半そでシャツに短パンの薄着で、ヴェリコ・タルノヴォの晩夏の朝は寒いけれど、厚着する必要などないことを教えてくれます。
いったん部屋に戻ってシャワーを浴び、再度、散策開始するか迷いましたが、ちょっと悩んでその考えは捨てることにしました。
眺望だけでなく快適なこのゲストハウスでのんびりバスの時間まで過ごすためでした。
せかせかするのを放棄して、ブルガリア人ならそうするようにゆっくりしようと考えたのです。

前日、バスステーションに着いた時、次の目的地のバスの時間を確認しておきました。
上り坂で45分かかったバスステーションまで下りなら30分だろうと踏んだのですが、15分ほどで着いてしまいました。
昨日は道を間違えていたということを、そのために見つけられなかったツーリストインフォメーションで教えてもらったからです。
次に向かうはポポボという町です。
ヴェリコ・タルノヴォの地図を見たときに近くにボの字が3つも並んだ奇妙な名前を見つけ、それはよく見るとボボボではなくポポボだったのですが、何があるかもまったく知らないままに、行ってみることに決めたのでした。
バスの乗客は20名ほどでしたが、1時間強で着いたポポボで降りたのはわたしだけです。

ポポボには何があるのか、正直に言って何もありません。
そればかりか宿泊も困難なようで、徒歩5分ほどの町の中心にあったホテルでは宿泊を断られてしまいました。
言葉が通じないので理由も聞けません。
近くに地図がありましたが訪れるべき場所は見つけられず、ツーリストインフォメーションと書かれていましたが、そもそもツーリストが来ない土地でだいぶ前に廃業してしまったようで、道行く人に聞いても誰も知りません。
地図に駅が出ていたので向かいましたが見つからず、たまたま尋ねた人が片言英語を話せて、駅まで5キロ離れているので歩く距離ではないと教えてくれました。
地図上では5キロではなく5分の距離なので、縮尺をデフォルメし過ぎです。
こんな地図をつくるから観光客が来なくなっちゃうんだよと市長に会う機会があれば文句を言わなければなりません。
しかし、こんな幸運もあるのでしょう、片言の男性が駅にはタクシーで行けばよい、その裏にホテルがあるから呼んでもらいなさいと教えてくれて、図らずもホテルの存在を知ることができました。

そのホテルがまた面白いことに、女主人は英語はダメだがドイツ語で話してくれないかと日本人のわたしに聞いてきます。
わたしは当然ドイツ語なんてできませんが、学生時代に音楽を聴いたり、ドイツ、オーストリアを旅したことがある関係で簡単な単語は分かります。
アイン・ナハト、アイン・ヘレン、ツィンマー・フライ? とインチキドイツ語もどきで聞いたら通じて、ヤーとの返事にようやくホッとしました。
昨日いっしょに酒を飲んだアレクサンドルはイタリア語ができて、今日の女性はドイツ語。
ブルガリアの田舎では英語より他の欧州言語の方が通じるのはなぜなのでしょうか。
喜んで部屋に入ってびっくり、赤とピンクの内装はラブホテルそのものです。
そういえば、片言英語の男性はホテルではなくモーテルと言っていたようだったのは、聞き間違いではなかったかと、ようやくわたしは気付いたのでした。

それにしてもすることがありません。
1時前に町に着いて、2時半にホテルに入りましたが、このあたりは9時にならないと真っ暗にならないので時間はたっぷりあるのにすることがないのです。
ちょうど宿の息子が車で出かけるので町の中心まで送るよと言ってもらいましたが、そこで降ろされてみても興味を引くことがありません。
先ほどの地図のところに戻ると、教会とかミュージアムとか目ぼしいところはマーキングしてあったので、それを全部制覇してやれと考えました。
今度は地図の距離が正確ですべて確認することができました。
坂のある町をだいぶ歩いたのでヘトヘトで、たぶんわたしがポポボをいちばん歩いた外国人ということになると自負します。
今まで、もったいないと思って利用しなかった路上のカフェですが、時間を持て余して座席に着いてみました。
メニューを見ていると、近くにあった売店から間をおいて店員が出てきてオーダーをとり、すぐにビールとグラスを持って来てくれました。
売店で買うより30円プラス程度で、オープンカフェでふんぞり返っていられました。
今まではビールを買って公園のベンチで飲んでいましたが、ソフィアでも同価格で飲めたのならなんたるバカなことをしていたのでしょう。
こんなことをカフェでPC入力していても時計はゆっくり進むだけで、依然、時間を持て余すばかりです。

ブルガリアにはたいへん心打つ美しい習慣があります。
亡くなった人を写真付きでプロフィール紹介した紙を家に貼り出すというものです。
故人を忘れないために行われていると聞きましたが、あなたはいつまでもこの家にいるのだとの気持ちを保つことができるということでしょう。
ポポボの町では壁という壁にその写真が貼られている家があり、いったいこの家で何人亡くなったんだと驚かされました。
もうひとつ、この町を歩き回ってわたしはあることに気付きました。
レストランが1軒もないのです。
不安になって先ほどのカフェの女の子に聞いたところ、前の道をまっすぐ2キロ歩いたところにあると教えてくれました。
実際にはそんなに離れていなかったと思いますが、20分歩いてようやくポポボ唯一のレストランが見つかった時は思わずウェイターに礼を言わずにいられませんでした。
しかし、レストランは大繁盛していて、わたしもチキンのスープ、自家製ソーセージ、野生マッシュルームのチーズグリル、ハウスワイン、カプチーノと頼んで、たったの900円でしたが、繁盛している理由が分かるほどの美味に満足しました。
さて、あまり写真を撮っていないので作例の選択も困りましたが、先日話したトラバントを何度か見かけたので、ロシア人に破壊された教会の再生された鐘楼をバックに撮った1枚を採用します。
どうです、トラバントって可愛いでしょう、リアもまた素敵なんですよ。
レストラン以上に困ったのが、見どころがまったくないことでしたが、トラバントを4台見たので、トラバント・ミュージアムとかドライブ体験できる町として売り出してはどうかと、再度、市長に提言したいと思います。
【Alpha7/Holmes Booth & Haydens 20.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Holmes, Booth & Haydens 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(2) | 2015/08/27 Thu

アレッハンドロ手製の酒

Nikkor 5cmF1.5
ソフィアは一国の首都にして、ブルガリア最大の町でありながら、コンパクトで静か、かつのんびりしていてたいへん居心地のいいところです。
もう1泊するか悩みましたが、今回の旅では欲張って東欧諸国をたくさん廻ることにしていて、早くも移動することにしました。
古い町並みがあって、次に向かうつもりのルーマニアにも近づけるヴェリコ・タルノヴォという町に行くことにしました(以下、ヴェリコと略します)。
前日、そのことをホテルに告げるとバスの時間を調べてくれて、余裕をもって朝食を食べてバスステーションに向かうことができました。
しかし、余裕を持ちすぎました。
乗ろうとしていたバスにわずかに間に合わなくて、45分後に次のバスがあるからとインフォメーションで聞いてチケットを購入しました。
時間があるので少しボーッとしていると見るからに中国人の女の子がインフォメーションで揉めているのが見えました。
助け船だと思って近づきましたが、なぜか彼女はわたしにではなく別の女性に何やらヘルプを求めて話しかけ、インフォメーションは英語もできなくてと聞こえよがしにぶつぶつ言っていました。
何と失礼なと思い注意してやるかと思ったら、どこかへ消えてしまったのですが、インフォの女性にも聞き直しした女性にもあいさつはなしです。
インフォの女性とはわたしは英語で普通にやり取りしたのにどういうことでしょうか。
インフォの女性に向かって詫び、わたしは日本人だがあの女性は中国人でマナー知らずを許してほしい、同じアジア人としてたいへん恥ずかしい思いだというと、気にしないでくれと逆にわたしに恐縮していました。

成田からソフィアへの飛行機は遅延なしで順調でしたが、がっかりなことにソフィアからヴェリコへのバスが始発だというのに30分も遅れてやって来ました。
ディレイ病が再発してしまったようです。
しかし、バイパスのような幹線道路をひた走るバスはとても早く、3時間ほどでヴェリコに到着しました。
バスステーションは町の外れのような場所でしたが、中心までどう行くか聞いたら歩いて行けると前の道を左だと指さされます。
小さい町なのかと思えばとんでもない、新市街と旧市街が対峙して立つ地方都市です。
困ったのは坂の多いことで、いちばん下のバスステーションからは荷物を持ちながらひたすら登らないといけません。
ただ、坂の町でありがたかったのは、地図もないというのに見通しの好いところにさえ出れば旧市街がどこにあるか分かるところで、どうにか30分歩いて美しい家並みのあるエリアに辿り着きました。

だいぶお腹が空いていたので、通りにあった1893年に創業したというレストランで食事します。
役場のような建物で高級レストランに入ってしまったようですが、料金はリーズナブルで1200円ほどでスープ、チキン、ビールの食事ができましたが、安いからといって毎回こんなに食べていれば予算オーバーですし、太ってしまうでしょう。
インドで胃痛に悩んでから体重が5kg落ちたのですが、軽くなると動きもしなやかになったような気がしていてリバウンドしないかを気にしていたので、食事は以降制限しようと誓います。
そのレストランで好いゲストハウスを紹介してくれと頼んだら、レストランが宿も兼ねているとのことでしたが、料金4200円と聞いて考えさせてと断りました。
ちょっと高すぎなのはインテリアに凝った部屋だからでしょうが、わたしにはベッドと温かいシャワーがあれば十分なので節制することにします。
近くにホテルの表示はありますし、コプリシュシティツァでの経験からきっと安いゲストハウスがあると確信しています。

しかし、歩きにくい石畳の坂道を荷物を持って上がるのはしんどく、小さく平凡なゲストハウスの表示にここでいいと手を打つことにしました。
ブルガリア人の家族連れが泊まっているのが見えて、料金が高いということもないでしょう。
出て来た男性にひとり1泊だけでと告げると、部屋を見てくれと言います。
アジアで安宿を探すときにはまず部屋を見せてくれと頼んだものですが、部屋を見てくれと言われるのは初めてのパターンでした。
その部屋に行くには小さな階段を上がり入り口の上を通るとても小さな橋を渡ります。
それだけでおっと思いましたが、部屋の前のテーブルとイスが並んだベランダに着いてびっくりです。
ここに来るまでまったく気づかなかったのですが、このあたりは崖の上のようなロケーションで、ちょっと高いところに上がればパノラマが一望にできるのです。
手前は古民家が並んでいますが、その先に見下ろしているのは深い森林で、開けたところに中世の城壁とお城が見えています。
部屋はダブルのベッドと6人は座れそうな大きなソファが置かれ、家具や灯りは古いものではなく新品のようでしたが、重厚さがあって壁紙のシックな雰囲気と見事に一致させているところにオーナーのセンスを感じます。
この部屋は高いんでしょと思わず聞いてしまいましたが、ええ高くて申し訳ないですが2100円でお願いできないかとの返事に、高いどころか激安ではと思わず聞き直してしまいました。
ドイツやフランスなら軽くその10倍してもおかしくない部屋です。
予算オーバーのランチを一気にとり返した気分でした。
ゲストハウスは5部屋ありましたが、部屋の中やベランダから眺望が楽しめるのはこの1室だけです。
ダブルの部屋だったためにかわいそうに家族連れはこの部屋は泊まれなかったのでしょう、わたしは幸運を手に入れることができました。

普通であれば部屋から見えている城壁に行ってみたくなるものですが、この部屋からの眺めているだけで十分で、わざわざ行かなくてもという気持ちでした。
ベランダの椅子で眺望を眺めたり、ときどき部屋に入ってソファでくつろいだりするだけで他に何かしたいなどとも考えられません。
西日が差してベランダも暑いのでここでビールを飲めば最高などと考えましたが、売店に行っても水で十分とビールは買いませんでした。
友だちと沖縄のリゾートに行く計画があったのですが、調整が付かず流れてしまいました。静かなリゾートのようでしたが、そこでも同じようにのんびり楽しめていたでしょうか。

重い腰を上げて少し散策してみることにしました。
メインの通りには観光客が散見されて、土産物屋からも声を掛けられてと、宿にいたときの気分が少し破られる気がしました。
人が行かないところへ行こうと細い路地の坂を上がっていくと、また別の古い民家の家並みが楽しませてくれます。
のんびり歩いていると初老の男性が家から手招きしています。
近づくとブルガリア語で何やら言われますが、理解できないと首を振っているにも関わらず、わたしの手を取って家に招じ入れられました。
酒を飲もうと言っているのがサケだけ日本語なので分かりました。
サケという日本語はブルガリアでは普及しているのでしょうか。
出されたのはなぜかサントリーのウィスキーの瓶に入った男性の手製のアラックという酒のようでした。
アルコール度数は高いですが、飲み口がマイルドで結構いけます。
コンサートのビデオを見せたいと言うのでてっきりブルガリアの音楽かと思ったら、なんとハードロックのライブで、ふたりでレッドツェッペリンとディープパープルを見ることになります。
1970年代のライブですが、そんな当時、ブルガリアではハードロックが流行していたのか、たぶんこの男性は共産主義の中で退廃したロックを聴くことは許されず、こっそりとしかしむさぼるように聴いていたのでしょう、ときどき懐かしそうに口ずさんでいました。
ふたりで乾杯しながらそこそこの寮を飲んだはずですが、まったく酔わなかったのは酒が上等だったからか、音楽がよかったのかわたしにしては不思議なことでした。
男性はいつの間にかイタリア語で話していることに気付きました。
わたしが理解できるかもしれないと思ったからでしょうが、簡単な言葉しかわからないわたしには依然として会話が成立しませんが、もしかしたら俺は英語はダメだがイタリア語はできるんだぜという自慢だったようにもとれました。
暗くなってきたので暇を告げると、すっかり感傷的になってふたりで抱き合って別れを悲しみました。
旅に苦しみがあるとすれば、長くアップダウンの道を歩かなければいけないことでも、カバンの重みに耐えながら宿を探さなくてはいけないことでもなく、ただ言葉が通じないことだと悟りました。
ありがとう、アレクサンドル。
【Alpha7/Nikkor S・C 5cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Nikkor S・C 5cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/26 Wed

ウェルカムバック・トゥ・ソフィア

Nikkor 5cmF1.5
ソフィアに戻って来ました。
1週間前にソフィアを離れた同じ空港に到着し、同じ地下鉄に乗って、同じホテルを目指します。
空港では税関を出ると赤と青のラインが床に書かれていますが、それぞれバスと地下鉄の乗り場までそれは伸びていて、初めて到着した外国人がスムーズに移動できるよう便宜をはかっています。
しかし、それがなくても迷子になりようがないくらい空港は小さいです。
地下鉄はやはりかつての共産圏エリアの一員だったことを思い出させる洗練という言葉が似合わない乗り物で、車内には何故か歯磨き粉の広告1枚だけが貼られていて、殺風景さに拍車をかけています。
ホテルは先週宿泊してたいへん気に入ったので、また予約したのですが、なぜか400円ほど上がっていました。
わたしが褒め過ぎたのでこの1週間で強気の値上げを敢行したのでしょうか。
そういえば帰国時に空港で女子バレーボールのブルガリア代表選手を見ましたが、今回は同じ機内にムエタイのブルガリア代表選手が乗っていて、大柄な選手が足を引きずっていたのがこの競技の過酷さを説明していてなんとも気の毒でした。
さらにバゲージクレームではテコンドーのドイツ代表選手たちが荷物をじっと待っているなど、スポーツの代表選手を見たいならここへ来るべしと言わんばかりの空港です。

つい先週とは言え、前回の帰りに利用しただけなのに地下鉄の駅からホテルまでがとてもスムーズで自分でも驚くほどでした。
駅の名前がキリル文字で読めないので、隣の座席の人に確認してから降りると、施設の中にツーリストインフォメーションがあって地図をもらいます。
その地図を見なくても歩いた通りを記憶していて、すぐにホテルまで到達しました。
先週見送ってくれたレセプションの青年が、ウェルカム・バックと歓迎してくれます。
アパートを改造したホテルなので、1泊だけなのにソフィアのアパートに戻ったような感覚になりますが、部屋が前回と同じところで、ますますその感が高まりました。
この前と同様に二重になった窓を開け放って新鮮な空気を部屋に入れてから散策に向かいます。

すぐそばのバジリカ教会に行ってみましたが、日曜ではないせいか結婚式は行われていませんでした。
その先の公園では前回同様、骨董の露店が出ていて、着いて早々そんなものを見るのはどうかとも思いましたが、物色しながら歩きます。
銀の鏡を買った店は今日は休みで不在だったのが残念ですが、同じように銀のアクセサリーをいろいろと扱う店が手招きして、見てってくれと誘います。
買う気はまったくなかったのですが、銀細工の1900年ころの指輪が1000円くらいと安く、あまり買う気が無くて高いとかやり取りしたところ700円まで下げてくれたので、買ってみることにしました。
そんなに安くて本当に100年以上前の銀の指輪かと疑わしいですが、銀にのみ反応する液体をかけて赤く変色したので間違いないと胸を張っていて、じゃあ、その液体が本物である証拠を見せろと揶揄したくなりました。

今回もオペラ座では公演は無く、近くのコンサートホールは閉まっていて、明日には何かがあるのが分かりましたが、何があるのかはやはりブルガリア語が分かりません。
オーケストラの公演ならもう1泊して聴きに行こうかとも思いましたが、そうではなさそうです。
月曜なのでサッカーも当然なく、前回、偶然出合ったドイツ人マルコはガールフレンドがベルリンから来て、黒海のビーチにバカンスに行くとのことで会えません。
ぼんやり歩いていても適度に汗をかいたので、売店で100円しないビールを買っては公園でちびちび飲むを繰り返しました。
前回は声をかけてポートレイト撮影するということを一切できなかったので、美人がいたらぜひ挑戦しようと思っていましたが、やはり腰が引けてなかなか声が掛けられません。
国内やアジアだと平気なのにブルガリアでダメなのは、ここが完全にアウェイの地だからということでしょうか。
ようやく意を決して美人ふたり組に声を掛けたところOKしてもらいましたが、1枚撮ってもう1枚と言ったところで逃げられてしまいました。
May I take a picture? と言ったのがいけなかったのか、以降は複数形にしようと思いました。

夜は、前回も食事したハッピーというシンプルすぎる名前のレストランに行ってみました。
マルコと食事をした翌日のランチにも行こうとしたのですが、場所が思い出せなかったのですが、今回は散策していて偶然見つけたので位置関係が完全に把握できました。
マルコがナンパしていたヴェロニカちゃんは不在で残念でしたが、ポテトチーズポタージュスープ、ポテト付け合わせ付チキンのチーズソース、ガーリックパン、生ビール、コーヒーというミスマッチなオーダーで満腹になって1500円と、ブルガリアの物価を考えれば高いですが、日本や西欧のそれと比較するととてもリーズナブルな、旅のスタートの夜にふさわしい食事を堪能しました。
ヴェロニカの代わりに給仕してくれた金髪の女の子に写真を撮らせてもらいました。
なぜわたしの写真をと聞くので、日本にブルガリアの女性がいかに美しいかを知らせるためと日本で言えばウソ臭くて何言ってんだと怒られそうな台詞でも彼女は喜んでポーズしてくれました。

さて、1発目の作例ですが、公園の美人かレストランの美女かと思わせておいて、それを後日のネタ切れのときのためのストックに回し、レストランに向かう途中で見かけた動物と飼い主の写真にしてみました。
前を歩いていた男性がイヌを散歩させていたのですが、通りかかる人から何これのように声を掛けられていてイヌでないことに気付きました。
夜の10時で撮影には厳しいですが、撮らせてもらおうと思ったら、酒屋に入ってしまいました。
すると男性はリーダーを外してその動物を肩に乗っけてビールの物色をするので、地面を歩いているときには暗くて分からなかった姿がよく見えます。
スカンク? アライグマ? なんだか分かりません。
動物は近所の人気者のようで、店員や他の客から仕切りに声を掛けられていましたが、彼はシャイなようで恥ずかしがってご主人様の首の後ろに隠れたりしています。
彼らがようやく店から出てきたところで、撮影させとお願いしました。
女の子に声を掛けるのはかなりの勇気がいりますが、彼らには何の遠慮もなしです。
動物の種類はファレット? と言ったか、やはりシャイでカメラを構えると逃げ場探ししてばかりで落ち着きがなかったのですが、ちょうど男性のガールフレンドが来てくれてそのドサクサで撮影することができました。
ついでに彼女の単独の写真も撮らせてもらおうと思ったのですが、そう考えると途端にそういう勇気がなくなってしまうのです。
【Alpha7/Nikkor S・C 5cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Nikkor S・C 5cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/25 Tue

クラシックとクラシックカーと

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
今から20年近くも前の冬、わたしはベルリンを旅しました。
その前にポルトガルとスペインを旅したときに、宿泊したペンションの隣の部屋がドイツ人の母子で、日本人と初めて会話したということで日本にたいへん興味を示してくれ、食事をご馳走してくれたりもしました。
その後、半年に1度くらい手紙とか絵葉書を交換しましたが、遊びに来てくださいと書いてあるのが常だったものの、ロマネスク建築にのめり込んでいたわたしはベルリンや東ドイツに関心が持てなかったのですが、1週間の冬休みにロンドン経由でベルリンを訪れてみることにしたのです。
最悪なことに、いちばんの楽しみだった女子大生の娘はスコットランドの英語学習合宿に行ってしまい不在で、そのため、彼女の下宿先を宿に使ってくれと提供されたのは、宿泊の高いベルリンで災い転じて福ではありました。
ドイツに限らずヨーロッパでは、子どもが大学生になると独立して家を出るのだということを知ることもできました。
当日はお母さんと食事してから、渡された地下鉄の最寄り駅名と住所を頼りに駅からアパートを探しましたが、地図が無いとどちら方面かも分かりません。
大学生風の青年に尋ねてみると、あっちだよと言ってくれるかと思えば、いっしょに探そうと30分近くかけて雪空の夜、アパートを見つけてくれました。
お茶くらいご馳走しなくてはと思いましたが、彼はこんなことは当たり前だという笑顔で去っていきました。
このときのインパクトが強くて、わたしも道を尋ねられたらなるべくそこまで連れて行ってあげるようにしています。

話が全然ずれてしまいました。
このときわたしがベルリンでいちばん興味を持ったのは、チェックポイント・チャーリーでの東西ベルリンのイミグレーションが残っていたことではなく、博物館に売られていた落書き入りベルリンの壁のかけらでもなく、トラバントという車でした。
トラバントは1958年から40年以上にもわたって東ドイツで製造されていた乗用車です。
この間、何度かモデルチェンジしていますが、基本的な外観や、2気筒2ストロークエンジン、プラスチックボディという基本的な部分は変更されておらず、1950年代に最新鋭の車として発売された自動車が半世紀後もほぼそのままの姿で製造され続けて、生きた化石とも呼べる共産圏の名車でした。
西ドイツでは、ベンツ、BMW、フォルクスワーゲン、オペル、アウディといった世界の先端を行くメーカーが自動車を製造していた中で、東西ドイツが統合されるや突然時代錯誤なトラバントがそれらと並走するようになり、そのギャップの楽しさが受けて、西ドイツ出身者でトラバントを愛好する人が急増したと言われています。

わたしがベルリンを旅したときは東西の壁が崩壊して10年近く経っていたはずですが、まだまだトラバントはあちこちで見ることができました。
ワーゲンビートルやシトロエン2VCと同様に準クラシックカーのような存在ですが、トラバントにはそのような洗練が無く、共産主義を全面に出したような無骨さがあって、かえってそんなところが暗い過去へのオマージュとしての支持を得ていたのかも知れません。
しかし、相当に古いものですし、排気ガスの規制等をクリアしているとも思えず、すでにほとんどが廃車の憂き目にあっていると考えていました。
今回の旅で足を延ばしてベルリンでトラバントに再会できないかと考えていたのですが、トルコからブルガリアに入ってコプリシュシティツァという田舎町に行った時に古民家の脇にトラバントがあるのを見つけてしまいました。
しかもレストアしていないボロのままにも関わらず、しっかり走行できる姿で。
喜び勇んで写真を撮っていると、そのオーナーが現れてエンジンやコクピットを見せてくれたり、実際にエンジンをかけて懐かしい音を聞かせてくれました。
ブルガリアの田舎ならまだまだ見られるのかよく分かりませんが、今回の旅で見かけたトラバントはこの1台だけでした。

話は変わって、トラバントを見たコプリシュシティツァでの夕刻のことになります。
古民家の庭の方からヴァイオリンの響きが聞こえてきました。
シューマンのトロイメライを情感たっぷりに弾いています。
何かと思い行ってみると、非常に幸運なことにこのあとヴァイオリンとピアノのリサイタルがあって、そのリハーサルを公開しているのだとのこと。
伴奏はアップライトピアノでマイクを通していましたが、両演奏者とも技術はかなり高いように見えます。
リハーサルが終了したので、周囲の人に聞くとリサイタルは30分後に始まり入場料不要とのこと。
しばらく近所を散策して戻ってみるとまばらだった急ごしらえの座席はほとんど埋まっていて、古民家の庭のコンサートにも関わらず、ざっと7~80人が腰掛けて演奏が始まるのを待っていました。
座れないのを覚悟しましたが前から3列目にひとり分のスペースを見つけて図々しく割り込みます。

演奏はとてもすばらしい、特に技術的にかなり高いことが素人のわたしにも分かるものでした。
というのは先ほどのトロイメライを除くと、小曲ばかりとはいえ、クライスラーの編曲したものを中心にブルガリアのヴァイオリニストが作曲したものなどいずれも難曲ばかりで、それらを余裕をもって弾きこなしていました。
最初は、この町出身のアマチュア愛好家かオーケストラで仕事している人の凱旋リサイタルのようなものを想像していたのですが、そういうレベルではなさそうです。
重音で倍音を慣らしたり、右手で弓を弾きながら左手ではピッツィカートしたり、わたしの耳や目では追いきれない名人芸の連続なのに、旋律を弾くととても深い音を出して聴衆を魅了します。
最後の方の曲では熱が入りすぎたのか、突然、弦が切れてしまいました。
演奏をストップさせて、弦が切れたことを示し、パガニーニであればこのまま弾き続けたのですが、わたしの技術では止めるしかありませんとブルガリア語と英語で冗談を言って場を和ませながら、庭の木の株にどんと座って弦を張り替えていました。
そんな姿も超一流に見えます。

愉しい夜になりました。
例えコプリシュシティツァがつまらない町であっても、このコンサートを聴けただけでわたしは大満足だったでしょう。
そのうえ町は美しく、食事は美味しく、翌日には民族音楽の合唱があり、ついでにトラバントも目撃できたので何も言うことはありません。
リサイタルが終わって古民家を出ると、来た時は気付かなかったのですが、そのリサイタルのポスターが貼ってありました。
ブルガリア語なので日時以外はまったく読めません。
わたしの前で熱心に聴いていた高校生のグループが来たので、演奏者の名前はなんと読むのか聞いてみました。
教えてもらった名前は失念してしまいましたが、プロフェッサーだと教えてくれました。
齢70くらい、恐らくはソフィアの音大の教授ということでしょうから、かつてソリストとして活躍して一線をしりぞいてから教授になったか、もともと大学で指導者として幾多のヴァイオリニストを育成した人なのか。
そんな人が無料で古民家のリサイタルを開くというブルガリアがますますすばらしく感じられます。
作例は、弦を張り替えるプロフェッサーの様子です。
演奏を中断されて不機嫌とか、弦の張り替えに焦るとかいう素振りは一切なく、音楽を奏でていた喜びの余韻の中にいるような表情がとても好いと思いました。
トラバントの写真にするか悩みましたが、またしばらく東欧を廻るのでこの車を見る機会はあるかも知れず、アクシデントを笑顔で乗り切る姿に自分の旅を重ねて、こちらの作例を採ることにしました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/24 Mon

安全の約束されない旅

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
帰国してバンコクで爆弾テロがあったことを聞きました。
タイは微笑みの国で、もっとも安全な旅行先のひとつだと思っていただけにショックでした。
とはいえ、わたしも滞在したハジャイなどタイ南部はイスラム教のエリアで、仏教を国教のように信奉するタイ政府と衝突がかなりあったことはよく知られています。
今回の犯行は外国人によるものという可能性が高いようで、宗教的対立とは関係なさそうですが、タイの人たちのためにも犯人が早期につかまって、タイの政治も安定に向かうことを期待して止みません。

そんなことを考えていたら、今度は韓国と北朝鮮の緊張が一気に高まりました。
北朝鮮を非難する放送をしている拡声器に砲撃というのもかの国ならではでしょうが、韓国のシェルターをニュースで初めて見ました。
避難用のシェルターが存在して、実用になっている。
あらためて韓国は休戦中とはいえ戦時下にあることを思い知らされました。
中国では天津で大爆発があったそうですが、その爆発はたいへんなことですが、神経ガスが基準値を超えて飛散していると消防士が伝えているのに、政府がそんなものはないと文字通り火消している情報操作のことがより気になりました。
さらに今日は山東省淄博市でも爆発があったと報じられましたが、この町はわたしが2月に古鎮を見ようと青島から立ち寄ったところなので少々驚きました。
立て続けに爆発事件となればテロの可能性が疑われるのではないかと思いますが、そんな話は一切出ていないようです。
それも情報操作によるものでしょうか。

旅行中のことなので若干古い話になりますが、インドのコルカタに滞在中カフェに行ったところ、昨夜このあたりで女性がふたり殺されたという話を聞きました。
報道される前の不確実な話でしたが、インドで頻発しているレイプ絡みで西洋人ではなくどこかのアジア人が犠牲者だったようです。
インド人は人懐っこい感じの人が多くて、それが過ぎるとうざったく感じられることが多いのですが、人を殺したりレイプしたりというのとは縁遠そうな気がしていました。
ごく一部の悪党の仕業と言っても人口の多い国では悪党がそこそこの数になってしまい、日本から見るとレイプや殺人がしばしば起きていると感じられることになるのでしょう。
警察もあまり信用できないと聞きますし、市民は関わり合いを恐れて見て見ぬふりだと聞くので、インドに関しては君子危うきに近寄らずと言わざるを得ません。
隣のネパールは大地震直後で余震もときどきあったようですので、わたしが旅した国ではある意味いちばん危険だったのかも知れません。
最貧国に近い彼らを襲う自然災害の非情さに胸が痛みます。

扱いが小さかったので見過ごされている方も多いと思いますが、昨日は、アムステルダム発パリ行きの列車内で、イスラム過激派モロッコ人が発砲して、たまたま乗り合わせた米軍人に取り押さえられる事件も発生しています。
軍人のひとりは抵抗する犯人にカッターで切られて小指が切断寸前の大怪我を負ったと書いてありました。
日本では、台風が2つ同時に接近していて、天気図を見ると列島の真下に大きな円が2つ並んで今にも日本を飲み込もうとするかのようです。
桜島は噴火の可能性が高まっているそうで、近隣住人が避難生活を余儀なくされていると聞きました。
公民館のようなところでしょうか、韓国のシェルターより幾分生活するにはマシのように見えましたが、高齢の方たちが住み馴れた家を離れて不安な夜を過ごすのはたいへんなことに違いありません。

順序が逆になりましたが、滞在中のトルコではKPP(カーぺーぺー)という組織がイスタンブールなどでテロを行ったと現地のニュースで見ました。
英語が通じない宿の人たちと一緒でしたが、彼らがKPPはISISと同等の連中だと怒りを露わにするのは理解できました。
ざっとみるところKPPはクルド人に支持されている組織で、シリアやトルコなど少数民族のクルド人はかなり虐げられているイメージですが、それが故にテロに走るのかも知れず、トルコ人がテロの原因をクルド人の仕業と押し付けているとも読め、微妙な問題は現地にいたとしても判断付かない場合もあると知りました。
わたしの移動後にはアダナでもテロがあったそうですから、トルコはかなり揺れていると思われます。
去年だったか、イスタンブールが東京やマドリードとオリンピックの招致合戦をしていたとき、イスタンブールでは政権批判のデモが起きて招致レースにマイナスと言われていましたが、最近の出来事はトルコはそれよりずっと危険なレベルにあったということを示しているようです。

世界一周の旅だと自慢していても、どうせ呑気にぼんやり旅していると思われているかなと思い、実際には危険なところが多いんですよ的に出来事などを列挙してみました。
世界中どこにも絶対の安全はないということですね。
このままだと後味が悪いかも知れないので、個人的に気に入っている作例の紹介で終わりたいと思います。
場所は、観光客のほとんど訪れないだろう、しかし素朴で素敵な町、シブリヒサルの裏道のどこかです。
夕刻のひと時、女性たちが家の前でおしゃべりに興じていたのでこっそり撮影しようと思ったのですが、バレてしまい何やら怒られそうな雰囲気でした。
ところが彼女たちは嫌がっているのではなく少し待ってくれと言っているようで、家から可愛らしい女の子ふたりを連れてきて、さあ撮ってくれと指示しました。
わたしが頼まないでもご覧のような配置になって、おしゃべりの途中の雰囲気はそのままに静かに微笑んでくれ、この町ならではの雰囲気を映し出せたような気になったのでした。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/23 Sun

やり済ましとは何のこと

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
トルコ語はまったくできませんし、せっかく覚えた、こんにちは、ありがとうを何というのかも今や忘れてしまいました(さよならだけは、グレグレと覚えやすいので忘れてませんが)。
同じイスラム圏でもUAEやヨルダン、パレスティナではアラビア文字のアラビア語が
公用語だったのに対し、トルコではアルファベットを用いたトルコ語です。
アルファベットと言っても、ドイツ語のウムラウトやフランスのアクサンシルコンフレックスのようなマークが多用されていて、そのままローマ字読みでは通じない場合も時にあるようですが、案外と普通に読んで分かってもらえるようです。
作例は、タルソスという町で撮影したものですが、このタルソスはTarsusという綴りで、グーグルマップではタルススとなっていましたので、ローマ字読みのパターンです。
わたしは調べもせずに現地の人の言うのを真似してタルソスと表記しましたが、たぶん多くの日本人にはタルッソスというように聞こえると思います。

タルススと聞くとわたしは樽煤という古いワイン醸造所の倉庫を連想しますが、トルコのわずか数日間で日本語を連想させる地名とか張り紙をところどころで見たので、あまり意味もなく紹介したいと思います。
タルソスから近く遺跡を見に行ったのがSilifkeという町で、これはそのままシリフケで好いようですが、「尻拭け!」とはすごい名前の町ですね。
タルソスで知り合った人たちにシリフケは日本語で、Clean up my ass!という意味だとそのポーズをとったら、当たり前ですが大うけで、彼らのレストランでは、わたしが考案した尻を拭けというポーズが流行して、撮影し合ってシリフケ在住の友人にこれがお前の住んでいる町の名の日本語の意味だとフェイスブックに投稿していました。

彼らのレストランの向かいのレストランには立派なプレートが掲げられていて、トルコのミシュランみたいなグルメ本で表彰されたものかなと思わせました。
読めないトルコ語を読んでみると、Yarismasiなんとかと書かれていました。
これを何と読むのかは分かりませんが、まあ、ヤリスマシで合っているでしょう。
「やり済まし」という言葉にトルコで流行している新手のオレオレ詐欺を連想しました。
やり済まし詐欺です。
孫から電話があって、大切な会社の金を電車の網棚に忘れてしまったのでばあちゃん少しでいいから立て替えてくれと言われ、指定した場所に行くと孫の同僚を名乗る男がいて、ここではまずいのでレストランで食事をしながら金を渡すことになります。
男は高価なものばかり頼んで支払いは俺がするからと言ってレジに向かったままいつまで経っても戻って来ません。
おばあさんはお金ばかりでなく、食事の支払いまで肩代わりさせられるというトルコ中を震撼させている詐欺です。

わたしがイスタンブールに到着したとき、イスタンブールの滞在は後回しにしよう、まずは適当に東に向かって徐々にイスタンブール方向を目指そうと考えたのですが、空港でいくつかある行先を航空券料金と比較しながら決めたのがアダナという町です。
アダナはトルコの中央南部にありますが、地図を見るとISISが自国の首都だと主張するシリアのアレッポまで200キロも離れていません。
こんなところに行って大丈夫なんだろうか、拉致されたジャーナリストたちは同じルートでシリア入りを目指して、アダナ空港で変なヤツに声掛けられて騙され軟禁されたのではと心配になりました。
果たして空港で町への行き方が分からず戸惑っていると、男から声を掛けられました。
彼はメルシンという町まで行くとバスに乗ったのに付いて行ってしまいましたが、メルシンこそシリアとの国境の町では。
しかし、わたしの心配をよそに彼は居眠りしてしまい、恐怖の町、メルシンに到着、申し合わせていた彼の友だちがふたり車で待っていて、近くに安いホテルがあるので連れて行くと言います。
非常に危険な展開でしたが、彼らの言いなりになって車に乗り込むとホテルがありましたが素通りし、ますますやばくなってきます。
しかし、すぐ先の小さなホテルの前に車を停めて、さっきのホテルは高そうだったろうと言って笑っていました。
いい奴らだったのです。
メルシンはシリアとは逆方向で、先日も書きましたが、このあとアダナでテロがあったので、この移動は大正解でした。
彼の名はマークというので、アダナで知り合った彼にドイツ・マルクとあだ名を付けました。

最後は、シブリヒサルでのことです。
散策していると駐車してある車のリアガラスの上部に”NECOBABA”と書かれたステッカーが貼られていました。
日本人の誰もがネコババしてきた車だと思うでしょう。
これは写真に撮って今日の作例にしないとと思いました。
滞在した他の町でもそうでしたが、野良ネコがたくさんいるので、そのネコと人間をうまく配置した演出的写真を狙いました。
小さな町のこと、人間がなかなか通りませんがネコはちらほら見かけるので、まずは捕まえて確保しておき人が通ったタイミングで放って一気に撮影しようと考えました。
しかし、ここの野良はみんな人を恐れて逃げてしまいます。
わたしなりに必死に格闘しましたが、捕獲は不可能と諦めざるを得ません。
それよりも人間です。20分ほど待ちましたが、ついに誰一人ネコババの車の近くを通るものは現れませんでした。

最後に滞在したサフランボルでも日本語のようなトルコ語探しをしようと考えていたのですが、前に書きました通り中国人と行動することになってしまい、この地では成果を得られていません。
したがってこの企画はここで終了とさせていただきます。
そういえば、以前中国語を習っていた時に教えてもらった中国語をひとつご教示申しあげることにいたします。
自動車のBMWは確かバイエルン自動車会社みたいな意味の名称の略語だったと思いますが、経済が発展する前の中国ではこの車を持つことがたいへんなステータスでした。
そのためお金持ちがどこか路上駐車しようものならみんな寄って来てべたべたと触りたがります。
いつも車体に指紋を付けられて怒った車が叫びました。
「別摸我!(Bie Mo Wo.オレに触るなの意味)」。
何年か前まで、BMWはこの別摸我の略だと本当に思っていた中国人は意外に多かったと聞きました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/22 Sat

非パレスティナな町

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ベツレヘムは聖書でもなじみの町ですが、キリストが生まれたキリスト教の聖地です。
しかし、ベツレヘムはパレスティナ領内にあって、キリストゆかりの生誕教会の向かいは大きなモスクが建っています。
お昼の礼拝を見る機会がありましたが、近隣のイスラム教徒が大集結して何層もの列になり、額を地面につけて祈る姿は世界中から集まるキリスト教徒に対抗するかのような大迫力でした。
彼らが話してくれたところでは、キリストはイスラム教でも預言者としての位置づけだそうで、マホメッドが現れるまでの重要な存在ではあるらしいのです。
ユダヤ教での位置づけを確認することはできませんでしたが、キリスト自身がユダヤ人であったことを考えれば、同様の存在であるかも知れません。
ベツレヘムには、多くのキリスト信者がいてキリストにちなんだ行事がしばしば行われ、クリスマスで最大の盛り上がりを見せると案内で読みましたが、その信者がキリスト教徒かイスラム教徒かは分かりませんでした。

わたしが滞在したときの祭りは宗教色の特に薄いものだったという印象があります。
例えば参加者がキリスト教徒であれば、十字架のネックレスなどをしているのを見てもよさそうなものなのに、それなりに注視していたわたしにも確認できませんでした。
そして、メイン会場近くでは近くの醸造所で作られたビールの屋台が出展され、多くの人の手には生ビールのグラスが握られていました。
男性だとその服装から宗教を言い当てることは難しいですが、ステージで歌っていたこの女性たちの少なくとも中央の女性はイスラム教徒であることは分かるものの、こういう女性は会場ではそれほど多く見かけませんでした。
ベツレヘムはパレスティナにあってかなり特殊な町なのかなあと思った次第です。

ヘブロンではある男性から、以前インターネット上で読んだことがある話題が語られました。
9.11においてワールドトレードセンタービルがハイジャックされた旅客機によって襲撃された当日、勤務していたはずの4000人のユダヤ人が休暇をとっていたという事実についてです。
こんな説が本当か確かめるすべありませんが、多く言われる当時の米政権による陰謀説やユダヤ金融業界による陰謀説ではなく、イスラム社会を貶めるための陰謀説だというのが、彼らの信ずる考え方だとのことでした。
日本のマスコミにも陰謀は飛び火しているなど、いろいろな話をネット上で確認できるので興味のある方はご自身で確認ください。

わたしはこの祭りでたまたま声を掛けられて、パレスティナ・マラソンの公式Tシャツを購入しました。
もともと何もパレスティナで買い物をしていなかったので、Tシャツくらい買おうと思っていたのですが、エルサレムなどで見ると1000円以上してタイやネパールの倍以上だったので、買うのをためらっていました。
マラソンTシャツも値段は同じくらいでしたが、パレスティナの支援にいかがですかと誘われたことと、普通のTシャツと違いポリエステルの即乾燥素材が使われていたので、洗濯後すぐに乾くので旅にちょうど良いと考えて手に入れました。
実際、午後に洗濯するとその夜までに乾いていたので大いに助けられて何度か着用しました。
すると何度かそれは何のシャツですかとか、マラソンするのですかなどと声をかけられ、トルコやブルガリアでパレスティナについて説明するのに役立ちました。

トルコのサフランボルでは親しくなった中国人からシャツのことを聞かれました。
パレスティナは強国イスラエルからの独立志向が強いという点で、中国とチベット・新疆との関係に似ているので中国人がパレスティナのことを知らない可能性があります。
それを念頭に説明すると、パレスティナという場所のことや歴史的に重要な地であることは知っていました。
しかし、イスラエルとの関係は良くないということは知っていても、近代史的な背景は知らないようです。
それが彼女の個人的な知識の問題なのか政府による隠ぺいなのかは分かりかねます。
ところが、意外な事実ですが、パレスティナが国連に加盟しようとしたときに反対した常任理事国は、同様のケースで台湾やチベット・新疆の独立を恐れる中国ではなく、イスラエルと協調するアメリカだけだったとインターネットの情報で読みました。
このことは中国国内で報道されなかったでしょうが、中国が国連と国内で主張を違えていたのか個人的には興味深いところです。

パレスティナを国として認め、国連にオブザーバー参加できるようにするかの決議では、米国、イスラエルの反対にも関わらず日本は賛成にまわりました。
ジェリコーの町でJICAが活躍したように、日本はパレスティナに対してたいへん肩入れしているところがあるようです。
ジェリコーのツーリストインフォメーションの職員はJICAに敬意を示していましたが、恐らく他の人はJICAを知らないでしょうし、パレスティナの国民全体ではさらに日本の同国に対する活動なんて知らされていないでしょう。
歩いていても中国人かと言われるばかりでしたから。
日本政府やJICAにとっては友好的に接したり、活動して成果を残せたという事実があれば足りるのかも知れないですが、税金を投じたんだということを鑑みれば、もっとアピールしてその国民が広く知るような手立ても講じてもらいたいと思います。
大学生のボランティアがパレスティナ難民のために奮闘していること、日本国民の多くがパレスティナの現状を憂い彼らに同情的であること、旅行者だってガザの友人に会うために全力を尽くしたこと等々パレスティナ人に伝われば、少しは彼らの心に響くこともあるでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/21 Fri

我々はなんて似てるんだ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
パレスティナが領土としているのは、ヨルダン川西岸地区とガザ地区の2ヶ所です。
ガザは東側が海岸に面し、北と東をイスラエルに、南をエジプトに接した長方形に近い形状の土地です。
何年か前までは、エジプトとの国境が生きていてここから出入りできたそうですが、今では閉鎖され、イスラエルとのボーダーを越えなければ入境することができません。
一方、西岸地区はヨルダンと接しているので、東側からは割合と自由に行き来できると思われますが、この国境を管理しているのはイスラエルなので少々ややこしいことになってきます。
わたしはパレスティナの最初の町のジェリコーに着いてもしばらくピンと来ていなかったのですが、地図上ではパレスティナに見えるヨルダンとの国境はイスラエルのものでいったん同国に入国し、次に向かう町が西岸地区であればパレスティナの入境が行われるということのようです。
パレスティナではパスポートのチェックはするもののスタンプを押さないので、次にイスラエルに行ってもパレスティナの出国審査は無く、イスラエルの入国審査が再びあることもありません。

わたしはヨルダン川西岸地域をその名称から細長い狭いエリアだと誤解してきましたが、旅してみるととても広いことが実感されました。
地図で見てもイスラエルの3分の1しかありませんが、世界の面積ランキングでは244ヶ国中、173位と意外に善戦しています。
面積が狭いのは多くが島国ですが、少なくともバーレーン、ルクセンブルク、シンガポールよりは広いので、国家になるだけの案件は備わっていると言えるでしょう。
パレスティナは国連に承認さていますが、現時点では投票権を持たないオブザーバーとして参加しています。
昨年、国民投票で話題になったスコットランドや独立志向の強いカタルーニャ、バスクなどはまだ国連に認められていないので、パレスティナが今後、世界でいちばん新しい国になる最有力候補です。

パレスティナとイスラエルはくっきり分かれていますが、両者が混在する町というのもあることは滞在して分かりました。
ひとつは両国がそれぞれ自国の首都だと主張するエルサレムで、ここも全体にはイスラエルが実効支配しているようでしたが、城壁内の狭いエリアは4分割されて、イスラエル、パレスティナ、アルメニア、キリスト教の各クォーターと呼称されています。
もうひとつヘブロンという町は2割ほどのイスラエル人地区があるパレスティナ側の町ですが、パレスティナ人テロリストによってイスラエルの商店が襲撃され犠牲者が出たため、その周辺に居住することが禁じられ、ゴーストタウンとあだ名されていました。
それを名目に境界線付近には警官と軍による監視が続いていましたが、観光客が出入りできるくらいなので、特に緊張しているという訳ではありませんでした。
最後にベツレヘムという町も、パレスティナ側にありますが、イスラエルとの境界に接しているので、パレスティナ国内の交通とイスラエルへの移動の両方ができる便利な町でした。
戦闘状態になるとガザ地区のみとは言え爆弾が投下されるような両国の関係だというのに、このように両者が接している町があることが、わたしには不思議でした。

パレスティナの町では数回ですが、武器の写真が入ったポスターを見ました。
アラブ語の文字が読めないので推測ですが、武器をとって祖国のために戦おうという、勧誘ポスターのように思われます。
PLOやハマスのような組織が、実力行使でイスラエルから独立を勝ち取ろうとしているのでしょうか。
分かりにくい作例で恐縮ですが、トンネルの向こう側に吊るされたポスターには軍服を着た若者と機関銃の写真が掲載されていて、アラビア文字で何事か書かれています。
場所は先述したヘブロンで、イスラエルによって監視されているような状況なので、ポスターが訴える力は強いのかも知れません。
トンネルの中を歩く人にはまったく関係ないことですが、この中には関係者がいるのでは思えてくるのがこの土地を歩いた人間としての実感です。

ベツレヘムではお祭りをやっていて、パレスティナ関連のボランティアをしている学生たちに出合いました。
ひとりは、当地のパレスティナ難民キャンプで子どもたちの心のケアのための仕事をしていましたが、日本に帰るとパレスティナ人とイスラエル人の学生を日本に招待して、両者が理解しあえるよう共同生活するような活動をしていると言っていました。
両国民は背中合わせに暮らしているとはい言え、恐らく互いに理解し合おうとするような機会はないでしょうから、これはとても有意義な取り組みに思えました。
あるパレスティナ人参加者の感想として、われわれとイスラエル人の性格はまったく違っていると思っていたが、今回、日本人とも生活してみて、日本人と比べればわれわれとイスラエル人は何てよく似ているんだろうと感じた、というものがありました。
宗教こそ違えど、同じ環境で暮らして来た人たちなので性格が違う方がおかしいということを裏付けているように思えます。

以前、イスラム教とユダヤ教は帽子やスカーフがよく似ている、もともと同じものが少しスつ変わっただけではないかという根拠ゼロの仮説を立てましたが、性格も同じであれば、ますます両社は元来仲の好い隣人同士だったのではと思うのですが、どんなものでしょうか。
アラブ語とヘブライ語には類似性はないのでしょうか。
両方とも右から左への横書きで、字体はわたしが見ても違いが分かるほどですが、漢字とひらがなのような類似性があるような気がします。
イスラムとイスラエルのイスラまで一致するのは偶然でしょうか。
IslamとIsraelなのでlとrがすでに違うと言われるかも知れませんが、西欧社会が両者の仲違いを知って使い分けただけかも知れません。
いずれにしても同じ神様を信奉する人たちですから、近い将来に両国の問題は解決されて、わたしはガザの地に足を踏み入れることを期待しています。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
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Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/20 Thu

試写していいですか?

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ヨルダンやパレスティナで時折見たり聞いたりしたのが「ShiSha」でした。
わたしはレンズの「試写」をすぐに連想しましたが、喫煙具が並んでいて、その字は「死者」に替わりました。
ShiShaとは水タバコのことだろうと想像できましたが、興味が無いので放ったらかし、今になって思いだして、調べてみることにしました。
やはりウィキペディアにシーシャという項目があって、水煙管、水パイプとも言うと書かれています。
同様のものは中国で何度も見てこのブログに写真を載せたことがありますが、先月の旅でインドでも見かけましたし、トルコのレストランで吸っているのも目撃したので、アジア全般にあるようです。

先のウィキペディアによれば、シーシャは香り付けされたタバコの葉に炭を乗せて本体に溜めた水を通して吸引する器具だそうですが、水を通すため清涼感がありインドや中東などの暑い地域で普及したと説明がありました。
なるほどこういうものは地域性を反映するのだと感心します。
しかし、シーシャは吸引時間がたいへん長くなるので、紙巻きタバコ100本分の煙を吸い込むことになるのだそうです。
作例の男性は、たばこの害を認識せずにニコニコしていますが、長時間の喫煙によって脳に影響があると指摘されていて、頭が緩んでしまったのではと心配してしまいました。

たばこ以上に深刻なのが飲み物の問題です。
わたしはもともと1日2リットル以上の水分を摂ることを実践していますが、日本だとお茶類のバリエーションが豊富なことで摂取可能なのだと実感しました。
東南アジアから中東までずっと暑いエリアを旅したので、水はそれこそ毎日2リットル、3リットルも飲んでいましたが、水だけを飲み続けるのは辛いものがあります。
経済的な理由や常に売られていない可能性を考えて、1リットルか1.5リットルの大きなボトルを買っていましたが、これを持って歩くのは重量的な負担がありますし、購入時に冷えていてもその後すぐにぬるくなってしまいます。
変化をつけるためにインドやネパールではカフェやレストランでラッシーやフルーツ・ジュースを飲んでいましたが中東ではそのようなものがないばかりか、カフェそのものが見つからなくて苦労しました。
レストランにあるのはコーラばかりで、あまり好きではありませんが1日1本限定で清涼飲料水を飲むことにしました。
繰り返しになりますが、各種お茶のペットボトルが気軽に買える日本はありがたいなあと再認識します。

飲み物と言えば、中東のアルコール禁忌にも多くの人が困ることでしょう。
暑くて乾燥した中東ほどビールの美味しいところはないでしょうし、何よりビールがどこにも無いという事実が飲むことを渇望させています。
それは当地の人も同じなのではと勘繰らせる事実があります。
ヨルダンでもパレスティナでもあちこちの店で見たのがノンアルコールビールでした。
アルコールがダメならノンアルコールをということでしょうが、炭酸飲料はコーラやスプライトなどあるのに、ノンアルコールビールにするというのはやはりビールを飲みたいんだけど我慢していると考えざるを得ません。
同様に飲みたくて仕方なかったわたしは手製ビールをつくることにしました。
と言っても、上海で買っていた白酒のミニボトルのことを思い出し、件のノンアルコールビールを買ってきて少し混ぜてみました。
微妙な味でしたが、まあ、こんなものでしょう。
わたしはヨルダンでもパレスティナでもビールを飲んだことはすでに記載していますが、以前にモルディヴに行ったときにアルコール類持ち込み禁止でしたし、同様のイスラム教国は多いようですので、かなり意外な展開でした。

最後は食べ物のことですが、わたしのような短い滞在では大したことはありませんが、駐在者などの長期滞在では死活問題なのではと心配になります。
ヨルダンやパレスティナのレストランには一般に2種類のタイプがあります。
ひとつは、一般的なレストランですが、これがどの町にもあまりなくて、コメが食べられるレストランをと注文をつけて探したら、大きな町にも1軒程度しかないように思えました。
もうひとつは、アラブ式ファストフードであるシュワルマ(トリ肉などの塊が回転するバーに付けてあって、包丁で削った肉を食べる)などの肉をサンドイッチにして食べる店です。
ほとんどの人がテイクアウトするのでレストランとは言い難いと思うのですが、そのような店は必ず○○レストランと書かれていました。
このタイプのレストランはどこにでもありますし安いので、気軽にいつでも食べることができます。
しかし、インドのカレーもそうですが、前者タイプのレストランを見つけられないと、同じようなサンドイッチを1日3食とり続けることになってしまいます。
美味しいものですが、さすがにこれではすぐに飽きること間違いありません。

ガザの実家に招待してくれたマレーシア留学中のモハンメド君によれば、パレスティナは食事がとても美味しく、最高の食材は野生のウサギで、しかも何種類もの調理法があると自慢していたので、そんな食事に挑戦したくてガザを目指したのでした。
ウサギはわたしが利用したレストランのメニューでは見かけることができませんでしたが、ナブレスの市場ではカゴにれられた生きたウサギを見かけました。
食肉の状態で売られているならともかく、あんな可愛らしい動物は買って帰ってもなかなか捌けないんじゃないかと余計な心配をしてしまいました。
わたしは中国でならウサギ肉を食べたことがありますが、かの地でも高級食材でかなり美味しかったことを思い出します。
犬肉のように欧米からクレームが来ないのはフランスなどで食べる文化があるからで、クジラ肉もそうですが、自分たちの都合だけを押し付けるのはどんなものかと思ってしまいます。
いずれにしても、パレスティナの食事は期待が大きかっただけに、失望もまた巨大なものでした。
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Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/19 Wed

アカバ湾へ、シリアの国境へ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
昨日の深夜に帰国したので、ブログは今日から1週間後にソフィアにUターンするまでの間、ドバイ~ソフィアの旅を振り返ってという内容になります。
旅の最中のブログは、旅日記ないしは旅の備忘録なので、本来的にはここで旅の考察を書き留めたいのですが、そんなに難しいことは書けないので雑学ノートを目指すことにします。
旅先では夜になって寝るまでのあいだ部屋のベッドにゴロンとなってとか、バスの待ち時間とか、そのバスの中で揺れと戦いながらとか、ブログの書き込みに集中してきましたが、外ではWIFIがないのはもちろん、ホテルでもWIFIが微弱で接続が悪いとなると、地図や地名などが確認できなくて記憶で適当なことを書いてしまうことがあります。
自宅では逐一確認できるので、記載内容の精度は高まっているでしょうし、ネタにも事欠かなくなって、入力がはかどるような気になります。

今回のルートは、ドバイからスタートしていますが航空機の遅延により滞在時間は僅かで、さらに航空券のトラブルで1日滞在できるはずだったオマーンに立ち寄れなくなり、実質的にヨルダンから旅が始まっています。
アンマンは、気候的に日本より過ごしやすく、西洋的な部分があって滞在しやすいという印象もあって中東にあってこんなに滞在が楽なのかと気付きました。
ヨルダンは東西・南北とも200キロに満たない小さな国なので、ぐるっと廻ってみたいと考えます。
しかし、宿泊していたホテルが悪く、オーナー兄弟とけんかしてほとんどどこにも行かないうちにヨルダンを飛び出してしまいました。
怒りで飛び出したというのは半分ウソで、ガザ行きという任務があったので早めにパレスティナに行こうと発想を切り替えたというのが事実です。

地図を見るとヨルダンは、エジプト、サウジアラビア、イラク、シリア、パレスティナ、イスラエルに囲まれていて、海は無いように見えます。
しかし、地図を拡大してみると、南端のわずかに数キロが紅海の細長くなった部分の北端に接していて、実は海があるということが分かりました。
その南端の町はアカバという名前で、紅海の細長い部分はアカバ湾となっていました。
アカバという地名は紅海の紅を連想させ、漢字で記すなら紅場としたくなります。
その紅場に何があるのか分かりませんが、地図を見ながら、ここへ行ってみたかったと後悔の念がよぎります。
ヨルダンで観光というと圧倒的に有名なのがペトラという地で、いくつもの時代に分かれる遺跡が群立する考古学者垂涎の地だそうですが、そもそもここに行かなければヨルダンに来た意味が無いのでとツアーに参加させようとしたホテルのオーナーと喧嘩になったくらいで、わたしにはもともと興味はなく、むしろそれなら絶対行かないと意地になっていました。
次に有名なのが死海ですが、以前に記載の通りここにはパレスティナへ向かう途中連れてきてもらって、湖水の中を歩こうとして泥に足を踏み入れずぶずぶと底なし沼のように沈んでしまいました。
異変に気付いたオーナーの弟に助けられましたが、誰でも浮かぶはずの死海で溺死するという不名誉から助けてくれたのが侮蔑していた彼からとは情けない話です。

もうひとつ地図上で気になったのが、北部のシリアと国境を接する部分でした。
この国境線は200キロくらいはありそうですが、まっすぐに伸びた直線で、このことから当地には国境ラインを引くための川や地形的特徴のない砂漠であることが想像できます。
砂漠と言っても砂の丘だけが見晴らす限り連なる鳥取砂丘のようなところではなく、岩やところによっては草木も見られるしかし広漠とした不毛に近い土地のようなところではないかと思われます。
そんな200キロの直線をシリアはISISからどのように守っているのでしょうか。
後藤健二さんとの人質交換にアンマンの結婚式場で自爆テロ未遂を起こした女性を解放するようISISから要求されましたが、シリアとの国境を防御しなければ同じようなテロリストの出入りが自由になってヨルダン政府は国民を守ることができません。
あるいはアンマンに潜伏されて、滞在中の外国人を北朝鮮のように拉致して連れ帰られれば財源が確保できるとも言えるし、ヨルダンの安全性は失墜します。
わたしは臆病なので国境に立ちたいなどとは微塵も思いませんが、優秀だと言われるヨルダン軍が国境警備している姿を遠巻きにでも眺め激励したいと思いました。

ヨルダンで話を聞く機会があったのですが、ISISが基盤としているような国は、国内情勢に問題があるところだとのことで、シリアに接していながらヨルダンがまったく安全な理由も、国内情勢が安定しているからにつきると説明してもらいました。
もうひとつは、シーア派とスンニ派の対立の問題で、ヨルダンやサウジアラビアなど安定している国は穏健なスンニ派が大多数だからとも聞きました。
シーア派のすべてが過激思想といった単純な話ではありませんが、イスラムの歴史を簡単に見ると、マホメット以降の指導者をどうするかを決める際、民主的に決定しようとしたのがスンニ派で、マホメットの子孫から選ぼうとした純血主義がシーア派ということのようです。
単純な事例解釈で申し訳ないですが、マホメットの子どもが5人兄弟だとすれば、長男を支持するもの、次男を支持するものと分裂して、敗れた方の支持者が過激思想に向かうということは想像に難くありません。
シーア派の女性に教育は不要との蔑視の問題もあるので、あらためてシーア派本来のコーランに基づく思想を全体が取り戻すよう切に願いたいと思います。

さて、今日の作例は、アンマンの中心部にあるローマ劇場です。
市内の子どもたちが引率の先生に連れられて、野外学習にやって来たようでした。
アンマンはからっとしているので日陰にいると日中でも涼しさを感じるのですが、さすがに照り返しのあるこのような場所はかなりの暑さを感じてわたしはへばっていました。
しかし、子どもたちは元気に動き回っていたので、あちこちに分散してくれて劇場のスケール感がより分かりやすくなったと思います。
また、逃げ回る子が多かった中で、彼女だけが唯一カメラの前で静止してくれました。
ところで、ボケているので分かりにくいですが、いちばん上にヨルダンの3人の指導者の肖像が大きく掲げられています。
先代のフセイン1世国王、現在のアブドラ2世国王、後継者のフセイン2世王子です。
いずれも世襲ですが、国民からの指示は絶大だそうで、彼らの求心力が政治を安定させ、つまりはISISから旅行者を守ってくれていることを考えると感謝しないといけません。
ちなみにフセイン2世王子は、FIFAの副会長を務めていて、会長のプラッターが辞任したことから次期会長になる可能性もあるようです。
それを聞いて思い出すのが北京オリンピックの時に物議を醸したハンドボールの「中東の笛」問題です。
ハンドボールはアジア連盟の会長がクウェート人でいろいろと問題が発生しましたが、サッカー界でも金銭問題に続いて不可解ジャッジ問題が発生しないか危ぶむ声が聞こえてきそうです。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
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Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/18 Tue

ワインならわたしたちにお任せ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ソフィアからどうにか無事に帰国しましたが、その過程でかなり間抜けなことをしでかしてしまいましたので、恥を忍んで記しておきたいと思います。
分からないことを確認せずにあいまいなままにしておくと失敗するということを身を持って体験した記録です。
今回の帰国は、ソフィア-アテネ-ドーハ-羽田(帰路は成田―ドーハ―ソフィア)という2回乗り継ぎの格安航空券で、ソフィア-アテネ間のみブルガリア航空、他はカタール航空という変則チケットですが、そういう奇妙なルーティングも失敗に影響していたようです。

ソフィア空港の荷物検査では、前の女性ふたりがずいぶんと大きくて驚いたのですが、ブルガリアの国旗とバレーボールの文字があったので、バレーボールのブルガリア女子代表チームの選手だと思われます。
帰国後、バレーボールのワールドカップが日本で行われるそうですので、彼女たちもわたしと前後して日本に行くのでしょう、身長190センチくらいの美女たちでしたが、声でもかけとけば応援に来てとチケットをくれたかも知れないと後悔しました。
その後、空港内のワインショップの店員さんが美人なので、足が止まりました。
ワインはブルガリアの特産の一つで、レストランで無名のハウスワインを1杯飲んだだけですが、フルボディの濃厚な味でこれは旨いと率直に思えるものです。
乗り継ぎでなければ買って帰るんだけどと残念で仕方ありません。

しかし、先ほど航空会社でチェックインした際、荷物はダイレクトで羽田まで行きますが、アテネのカタール航空のカウンターで羽田までを再度チェックインするよう指示されていたことを思い出しました。
ワインを買って箱詰めしてアテネで預ければ、問題なく日本に持ち帰れると気付いたのです。
美人の売り子さんにワインを買ったら箱をもらえないか聞いたら、箱ならいくらでもどうぞとのことです。
早速、彼女の助けも借りてワインを3本選ぶことにしました。
彼女の絶対のおすすめだというカベルネソーヴィニオンが2500円くらいだったので、わたしは900円ほどの2012年とこの店では古い方に属するメルローをチョイスすると、彼女はそれも美味しいと後押ししてくれました。
この店のブルガリアのワインの多くは1000円前後とリーズナブルです。
あと1本はコプリシュシティツァで飲まされたウゾーと同系列のスピリッツにします。
ワインは1晩で終わりですが、スピリッツならちびちび飲めば長期間楽しめます。

箱を取りに行ったはずの彼女が別のところから現れて、あれっと思えば、今度は箱を抱えた彼女がまた現れてわたしの眼が丸くなったところで、ふたりは声を揃えてわたしたち双子なのと言いながら笑っていました。
彼女たちは3本を袋詰めして3本用の段ボール箱を別にくれました。
その時カスタムがとうこう説明してくれたのですが、美人が急に倍に増えた動揺でわたしはロクすっぼ説明を聞かなかったようです。
これはチャンスとばかりペッツバールレンズを取り出して自慢し、彼女たちを撮影させてもらいました。
光線がとても悪いのをそのままにしたため顔が黄色くなってしまったのが残念です。
と言っても失敗はこのことではなく、舞台をアテネ空港に移してそれは起こります。

アテネの空港では入国審査の窓口が2ヶ所だけで、しかも1つはEUパスポートホルダー専用だったので、もう一方のカウンターに長蛇の列ができていました。
もう10時過ぎなので、怠惰なギリシャ国民はふたりを残して働かないのでしょうか。
ようやくいったんギリシャに入国して、そのままカタール航空のチェックインカウンターに向かいます。
手にしていたワインはここで預けるつもりだったので、袋を破って取り出し、箱に詰めてカウンターの職員にチェックインをお願いしました。
するとこの箱のままでは機内で預かることができない、スーツケースに入れてほしいと言われますが、カバンは羽田直行なので受け取れないと説明しました。
すると職員はソフィアの空港で買ったのなら袋に入っているはずだ、それを荷物検査で見せれば手荷物で問題ないと言います。
わたしは箱を開けて袋とはこれのことかと聞くとそうだとのことで、このとき初めて乗り継ぎがあっても液体物は封印された透明の袋に入れてあれば手荷物にでき、乗り継ぎがあっても問題ないということを知りました。
しかし、もう取り出す際に袋を破ってしまったと説明しましたが、職員の話では袋に書かれたワインなら大丈夫との返事です。
ちょっと信じがたいですが、もう破ってしまった以上、その職員の話を信用するしかありません。

出国審査を過ぎて、いよいよ荷物検査があり、本当にワインを持ち込めるか心臓がバクバク言うのを見透かしたように、ここの職員は持ち込むことができないと厳しい態度です。
チェックイン時に問題ないと言われたと抵抗しましたが、航空会社はセキュリティの責任者ではなく、それをやるのはわたしたちだとギリシャ人にしてはずいぶんと責任感が強いことを強調していました。
ここで廃棄する以外にありませんと言います。
薄々気づいていましたがそんなの当たり前のことで、袋が破れていてもいいなら、簡単にすり替えとか薬品の混入とかできてしまいます。
それで、わたしはどうしたか。
9.11の直後、機内に液体物の持ち込みが禁止されるようになったその当日のニューヨークだかパリだかの荷物検査の映像を思い出しました。
高価なワインやシャンパンが持ち込めないと知った多くの人が、その場で栓を開けてラッハ飲みしていました。
わたしも真似してカバンからコルクスクリューを取り出し2本を開栓して、同じようにラッパ飲みしました。
1本はスピリッツなので簡単に手で開きましたが、アルコール度数が50度近いので、こちらは軽く舐めるにとどめます。
わたしは酒には弱いので、2種のワインを5分の1程度ずつ飲んだだけですが、さすがに高かった方のワインの方がずっと旨く、あのツインビューティの言ったことは正しかったと納得しながら飲みました。
合わせればワインボトル1本近く飲んだのですっかり酔っぱらってしまいました。
それでも再度荷物検査の横を通ると先ほど廃棄するよう言った職員が冷たい目でわたしを見るのが分かり、恥ずかしくなったせいか顔が赤くなっているのが分かりました。
荷物検査を通ると免税店が並んでいますが、袋さえ破らなければ問題ないと知ったわたしが向かった先はもはやここに書くまでもないでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
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Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/17 Mon

聖歌に涙禁じえず

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
昨日はホテルからサッカー会場に直行してしまったので、今朝は周辺を散策してみることにしました。
夕方には空港に向かわなくてはならないので、あまり遠くへ行かずどこかでお昼を食べて公園でのんびりというのでもいいかなと考えています。
ホテルは朝食が付いていてそれは簡単なものでしたが、狭い食堂スペースに小さなテーブルをうまく配置したり、ハムやゆでたまごを一気に準備するなど若いオーナーの工夫が光っていて感心しました。
姉弟でやっているホテルのように見えましたが、ふたりとも対応が丁寧かつフレンドリーで人柄にも惹かれたので、やや予算オーバーのホテルながら(と言っても4000円ですが)また泊まりに来ますと約束しました。

ホテルの前にはオペラハウスがあり、ワーグナーのリング4部作のポスターが貼られていて興奮させられましたが、残念ながらこれはすでに終了していました。
もっともいきなりワーグナーの楽劇を予備知識なしに見ても、わたしではすぐに眠ってしまうでしょうが。
ただ、ヨーロッパの都市にくれば、運が良ければクラシックなども聴けるということを思い出して、今後の楽しみが増えることを素直に喜びます。
坂を上がってすぐのところにバジリカ教会があって、中から聖歌が聞こえてきました。
日曜の礼拝かと思いましたが、中では結婚式が行われていました。
作例は、その1シーンですが、荘厳な式典の要所に奏でられる合唱は心を揺さぶられるほどの美しさで、自然と涙を誘われます。
それにしても、聖歌によるこの感動はいったいどこから来るのでしょう。
聖歌の持つ宗教性からでしょうか、それとも音楽が持つ宗教を超えた力でしょうか。

ビールが何しろ安いので、サンドイッチでも買って公園でお昼にしようと考えたのですが、なかなかサンドイッチを売る店が見つかりません。
サンドイッチはもちろんバゲットにハムやチーズを挟んだものが食べたいのですが、こちらでコンビニに該当する24時間営業の酒屋にはポテトチップはあってもパン類は一切置いていません。
そういえば、いかにもいそうな公園でランチをとるひとも見かけません。
公園でランチをする人がいないから酒屋でパンを置かないのか、酒屋でパンを置かないから公園で誰も食事していないのか、その理由は計りかねました。
サンドイッチの専門店をようやく見つけましたが、自然志向の店で高く、店員は父親がベトナム人だという人懐っこい青年で、少し話をしながら店内で食べてしまいました。
ビールも飲みたかったので、酒屋でビールとチップスを買って公園のベンチに行きましたが、気候が良くて開放的で、やはりここでサンドイッチも食べればよかったかと後悔しました。

その公園で蚤の市が開かれていました。
パレスティナの骨董屋で買い物していたので、もう見る必要もないと考えていたのに、蚤の市は並んでいるものにローカル性が色濃く出るのが面白くてついつい覗いてしまいます。
ガラクタばかりしかなくてかえってホッとしました。
そういっては失礼ですが、地方のみやげ物として売っているものの売れ残って古びたものをアンティークのように扱っていたり、怪しいナチスやソ連のミリタリーアイテムがあったりで、外国人目当ての観光市の様相です。
ところがアクセサリー類には古い銀細工があって、なかなかに興味を惹かれます。
女性用アクセサリーなので欲しいものは見つからなかったのですが、小さな手鏡は細工の美しさと鏡として今でも実用できる点で心惹かれるものがありました。
手に取って眺めると細工の繊細さは先ほどの聖歌の合唱に通ずるものを感じます。
ブルガリア北部の伝統工芸だそうで、様式や工房によっておおよその年代特定が可能で、これは恐らく1920年前後の製造だとのこと。
ただし、価格を聞くと7000円ほどで、1000円下げてもらえたもののわたしには少々厳しく諦めました。

再度、散策開始しますが、このあたりはソフィアの中心で、日曜の午後だというのに人通りが少なくて不思議な気がしました。
昨日いた郊外の小さな町てあるコプリシュシティツァの方がよほど人出が多いように感じられます。
ヨーロッパの日曜なので商店は閉まっているところが多いようですが、それにしてもソフィアの人は中心部の公園まで遊びに来たりしないものなのでしょうか。
トラムやバスも日曜で間引き運転されているようですが、車内にはあまり人が乗っていません。
何か理由があって家にいるのか、郊外に遊びに行くのか、あるいは土曜の夜遅くまで飲むので日曜は寝ているのか、いろいろ想像してみますが理由は分かりません。
また、コプリシュシティツァでもそうでしたが、男性のほとんどが短パン姿なのが印象的でした。
暑いのは確かに暑いですが、短パン・Tシャツになるのは冬が長いだろうブルガリアで、太陽をより長く広い面積吸収したいという気持ちが表れているからではないかと思いました。いま、存分に太陽にあたっておかないと、やがて短い秋が来たと思っているうちに厚い雲に覆われるイヤな冬のシーズンが始まってしまいます。

ソフィアの空港は市街地からそれほど離れておらず、昨夜のサッカー観戦中もスタジアムの真上をかなり低空で飛行しているのが見えたくらいなのですが、さらに最近、地下鉄が空港まで延伸されてとても便利になったとのことです。
そろそろ空港へ向かった方がよいかとホテルに荷物を取りに戻ったところ、そう教わって少々ですが時間を持てあましてしまいました。
思い出したのが、ホテルそばの蚤の市の銀の鏡でした。
トランクを引きずりながら向かってみると、もうお開きに近い時間のようで、何軒かの店がなくなっていて、今も店畳みする店が作業中でした。
しかし、さいわい鏡の店はまだ頑張っていて、近づくと、やっぱりまた来たんだねと、まるでわたしの再訪を待っていたかのような口ぶりです。
それにわたしが古いトランクを持っているのを見て、いいカバンだなあと褒めてくれます。
わたしも、日本に帰るので、鏡にお別れしに来たと返事しました。
すると、お別れせずに買って行ったらどうだい、今だけの限定価格で4000円にするからと言います。
ほんとうは3000円以下なら買うつもりだったのですが、4000円でもいいだろうとその場で了解しました。
店は仲間同士ふたりでやっていて、わたしがまた戻って来ていくらなら買うと思うと相談して4000円まで下げてやろうと決めていたのだそうです。
本当かどうか分かりません。
閉店間際にぎりぎりまで下げてくるのはよくある話で、今回はそんなケースとしか思えなかったのですが、わたしはあえてその話を信じることにしました。
きっとこの鏡には未来を予知する力があって、彼らが鏡をのぞき込んだら、わたしが4000円支払って買っている姿が映っていたのだと。
ビニール袋だけの雑な包みの銀鏡をパスポートケースに大切にはさんで、わたしは空港へ向かって歩き始めました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/16 Sun

日独同盟の夜

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
コプリシュシティツァの夜はっこう気温が下がります。
日中は30度近くあったのですが、夜は15度を切っているような印象で、朝も少し冷え込みました。
冬場はかなり寒くなるのでしょう、窓はすべて二重窓になっています。
100年前の建築と聞きましたが、窓がその当時からこのようになっていたのかは聞き忘れました。
これから、旅は暑さよりも、寒さを意識することになるのでしょう。
ヨーロッパに入って、宗教や食事が変わったということはすでに実感していましたが、季節の変化も感じていくことになります。

町の中心の広場にステージが設置されていて、フェスティバルの民族音楽が歌われました。
歌詞内容は分かりませんが、伝統的な音楽はハーモニーが美しいので楽しく聴いていられます。
作例では男性がひとり写っていますが、歌のほとんどが女声のみのコーラスで、面白いのはかなり低音のパートも女性が歌っていて、それが新鮮に響くことでした。
午後1時にはダンスのパフォーマンスがあるというので大いに期待します。
というのは、土産物屋さんに可愛らしい女性店員がいて、店に入ったところ彼女はダンスに登場するとのことでした。
お父さんから手作りのジャムを買うと2016年カレンダーのカードをくれたのですが、その表紙が民族衣装の女の子で、これはと聞くとやはり娘だという返事で、そこまでしている娘のダンスに大いに期待していたのです。
しかし、非常に不運なことにお昼を食べていたところ、雷が鳴って激しい雨が降って来ました。
雨は30分以上も続いたため、ダンスは3時に時間変更になってしまったとのことです。
3時半のバスでソフィアに行くことにしていたので、ダンスのさわりでも見られるかと思っていましたが、このあたりがブルガリア的なのか、時間になっても誰も現れず、後ろ髪引かれながらバスに乗り込むしかありませんでした。

2時間半かかってソフィアに着きましたが、到着したのは昨日のイスタンブールからのバスが到着したのと同じ中央バスステーションで、あらかじめそれを想定して、ホテルを予約していました。
この旅ではホテルはなるべく予約しないポリシーですが、最後の夜ですし、ソフィアのような都会では予約した方が無難かと硬く考えました。
サフランボルで中国の女の子がしたのを真似して地図アプリを見ながらホテルを目指しましたが、2キロ近く離れていたにもかかわらず、ずいぶんあっさりと着いてしまって、モバイルを活用する旅の楽さ加減を実感しました。
予約したのは新しい経済的ホテルですが、建物は古いビルで、内装こそピカピカですが、ソフィアのアパートに住むような感覚が、昨日のゲストハウス同様正しい選択と思わせでくれます。
もうひとつ調べておいたことがあって、今日、土曜日はサッカーのブルガリアリーグの試合が開催されるので、感染したいと思っていました。
夕方に着いたので、チェックインするや否や少々慌ててスタジアムに向かいました。

ソフィアには4チームが在籍するそうですが、この日は3チームがアウェーなので唯一のソフィアでの試合になるレフスキー・ソフィアのゲームを見に行きます。
レフスキー・スタジアムというところで開催されると聞いてタクシーに乗ったのですが、到着したスタジアムには人がおらず試合の気配がありません。
警備員に聞くと、英語が通じないので正確に分かりませんが、連れてこられたのは国立競技場のようです(話題になっている日本のではなくブルガリアのです)。
後で調べるとバジル・レフスキー・ナショナル・スタジアムという名前で、わたしが行きたかったのはフットボール・クラブ・レフスキー・スタジアムだそうです。
こんな名前がそっくりでは間違えて当たり前ですね。
レフスキーのサッカーが見たいと訴えるとタクシーで行けと言っているようですが、警備員はわたしに通じているか不安なようで、通りかかった青年に英語ができないか聞いています。
青年はできると答えましたが、ちょっと様子が変です。
英語はできてもブルガリア語が理解できないのです。
彼がドイツ人だからで、聞くと、驚くべきことに彼もレフスキーの試合を見に来てタクシーでここに連れてこられたとのこと。
わたしの話を聞くと、警備員の説明を聞きながらタクシーでいっしょに正しいスタジアムに向かおうということになりました。

タクシーの中で自己紹介し合います。
彼はベルリンから来たマルコという30代の青年で、もともと出身はハンブルクから北海に沿ってずっと東に行った旧東ドイツの出身です。
地元にはハンザ・ロストクという、今では3部リーグに落ちてしまっていますが、サポーターが熱いことでドイツ国内に知られる名門クラブがあり、彼はこのクラブを愛し続け、さらにはドイツ代表、ドイツの各クラブチームのことに精通したサッカー小僧のようです。
ソフィアには仕事で来ていてアパート暮らしですが、まだ来てから1週間程度なので、ただいまソフィアを開拓中とのことでした。
わたしがドイツの青年とブルガリアで会ったということで思い出していたのが1994年のワールドカップ・アメリカ大会での準々決勝の対戦でした。
そのことを言うと、実は俺もそれを考えていたとマルコは言います。
試合の詳細はよく覚えていませんが、ドイツ有利と思われていた試合でマテウスのPKで先制したものの、ストイチコフの目の覚めるようなフリーキックで追いつかれて、延長だったかにレチコフの距離のあるヘッドで逆転されました。
そうわたしがはっきり記憶しているのはその時のレチコフの頭の薄かったことと得点後のどうだ、見たか言う喜びの表情によります。
そんなことをマルコと話していると、彼はわたしをサッカー通と誤解したようですが、たまたまあれが鮮烈だっただけで、他のことは一切覚えてないよと逃げるしかありませんでした。

ただしいレフスキー・スタジアムでは、前半だいぶ苦戦したものの、レフスキーが後半に2得点して余裕の勝利でした。
マルコはサッカー全体をよく見ていましたが、それ以上にサポーターが適切な時期に応援歌を歌ったり、選手名をコールしたりするのに感心してすばらしいを連呼していました。
このスタジアムは奇妙なことに半分改修中でメインスタンド側の半分に観衆が集まっていましたが、マルコの見立てで残念ながら5千人しか入っておらず、胸にスポンサーの無い対戦相手のモンタナは20人くらいしか応援に来ていないようでした。
そして、恐らく外国人で観戦に来たのは彼とわたしの二人だけでしょう。
そんなただ二人の外国人が違う場所で出会って、いっしょに観戦したというのはなんという運命のめぐり合わせでしょうか。
10時に試合が終わってふたりともお腹ペコペコです。
タクシーに教えてもらったレストランに入ればよかったのですが、他に客がいないのは不味いか高いからだと敬遠して、ふたりして散策してレストランを探しますが、満席だったり、閉店間際だったりでなかなか見つかりません。
ピザ屋があったので、最悪レストランが見つからない場合はあそこにしようと言っていたら、ナイスなと表現したくなるようなレストランが見つかりました。
どこがナイスかと言えば、ウェイトレスがみんなきれいでしかもミニスカートだったこと、ユニセフとタイアップしていて売り上げを寄付していること、そして料理はリーズナブルで美味しかったことです。
彼は1時間そこそこのあいだに大ジョッキのビールを3杯も飲んで、俺はドイツ人だからと頭を1杯でそれなりに酔っているわたしに恐縮していました。
わたしは、明日帰国ですが、来週またここソフィアを振り出しに旅を始めるので、またビールを飲みに行ければと思いましたが、何でもマルコのガールフレンドがベルリンから来てブルガリアの黒海沿岸を旅する予定とかで、再会は難しいかも知れません。
にも関わらず、彼は十台に見える可愛らしいウェイトレスのヴェロニカに、明日、会わないかと声をかけていました。
ナンパかと言えばけっしてそうではなく、彼女が来るまでにソフィアを知っておきたいので案内して欲しいとのお願いでした。
ヴェロニカは明日も仕事だからと断りますが、空いている短時間でいいからと引き下がりません。
一見するとやはりナンパにしか見えませんでしたが、わたしには分かります。
彼はとてもいい奴なので、来週訪れる彼女のためにただ必死になっているのだと。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/15 Sat

ポークとワインに舌鼓

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
国際夜行バスにはWIFIが付いていたので、ソフィアの宿泊を予約してしまおうかと考えていたのですが、思い立ってトルコ同様に古い町並みが残る場所はないかと検索して、コプリシュシティツァという町を見つけました。
ソフィアからバスか電車で2時間ほどで行けるようです。
こことソフィアに1泊ずつして帰国の途につくことにしました。
朝の5時、バスはいかにも郊外という場所に到着して、ソフィアに着いたぞと降ろされました。
バスステーションはないのか聞くと少し先に見えている建物がそうだと言います。
そこはトルコのバスステーション同様、いくつものバス会社のカウンターが並んだ建物で、コプリシュシティツァに行くバスを探しますが見つかりません。
インフォメーションのカウンターもありましたが、朝が早すぎて開いていないので自分で探すしかないのです。
外で清掃していたおじさんが外にあるカウンターだよと教えてくれたのですが、カウンターは閉まっていて、入り口の表示ではコプリシュシティツァ行きは9時発となっていてまだだいぶ待たないといけません。

バスの時間にはまだ3時間以上あるので、鉄道駅に行ってみることにしました。
路線バスやトラムが走っていますがどれに乗ればいいのか分からず、さきほどの掃除のおじさんに駅はどこだと聞くとコプリシュシティツァはバスで行けと言って譲りません。
9時出発まで待たなくてはいけないからと説明しますが、そもそも英語が通じていないのでよく分かってもらえないのです。
そこでコプリシュシティツァはあきらめて別の場所に切り替えたフリをして地名を告げて、強引に駅への行き方を聞いてみると、駅ならあっちと別の建物を指さします。
殺風景なところでバスを降ろされたので勝手に郊外かと早合点していましたが、ここは、中央駅と中央バスターミナルのあるソフィアの中心に近い場所だったのです。
かつての社会主義圏らしい洗練されていない町並みの風景がそのまま残っていたということが誤解の原因です。
駅の窓口で聞くと1時間後くらいに出る列車がコプリシュシティツァに停車するというのでチケットを購入しました。

ブルガリアの鉄道がまた洗練されていない困った乗り物でした。
駅には刑事がどこにもなくて何番線から乗ればいいのかまったく分かりません。
ホームに出れば分かるだろうと思い地下通路を通っていくと8番線くらいまであって、適当に上がってみましたが、やはりそこにも表示はなく、たまたま停まっていた列車にも行先などは書かれていません。
もっとも書かれていたところで、ブルガリア語はロシアと同じキリル文字が使われているので読めないし、切符には列車の番号はありますが終着駅が書かれていないので乗ることはできないでしょう。
エレベーターはなぜか動いておらずトランクを持って階段を降りたところで駅員がいたので、切符を見せてどれに乗ればいいのか聞きます。
さすが駅員は英語で対応してくれますが、さすがなのはそれだけで、何番線のどこ行きに乗るかなどということは分からないようで、どこかに携帯で電話して聞いています。
8番線だと言いますが、本人も不安なようでいっしょに電車のところまで行ってくれるようです。
どのように確認するのかと思ったら、列車に乗っている人にコプリシュシティツァに行くか聞いていて、そうだということで乗車しました。
そう教えてくれた乗客がどうやって調べたのか気になりましたが、その謎は最後まで分からないままでした。

バスでは2時間かかるという話でしたが、電車の方がずっと早く1時間30分ほどで着いてしまいました。
距離のある西の外れのブルガス行きでしたので、急行か特急だからでしょうか。
座席指定の切符でしたが、列車は空いていたので窓側の席に移って窓枠に肘をついてずっと寝てしまったので途中駅をどの程度通過したなどよく分かりません。
ただ車内アナウンスが無く、駅の表示もほとんど分からないため、到着時間をあらかじめ車掌に聞いて5分前にはドアのところに待機して駅名確認して降りました。
ブルガリアの鉄道は上級者向け乗り物というか、すべてがミステリートレインのようなものです。
違う行先の列車に乗ってしまったり、乗り過ごしたりのリスクがとても高いので、鉄道過保護な国から来たわたしたちには不便極まりありません。
掃除のおじさんがバスを勧めた理由がそれかと思いましたが恐らくもうひとつあるということに気付きました。
駅は町から10キロも離れていてバスに乗り換えなくてはいけないことが分かりました。
ただし、鉄道の時間に合わせてマイクロバスが待機しているようで、下車した6人全員がそのバスに乗ってコプリシュシティツァの町へ向かいます。

町はとてもコンパクトで、表示されていた地図を見ると今日の午後だけで町全体を巡ってしまえそうです。
トルコの古民家と少し似た、しかしより個性的で古そうな家が並んでいて、そのうち8家屋ほどは古民家博物館として公開されていました。
やはり宿泊してこれらをゆっくり見て回りたいので、荷物を置くためにホテルを探します。
町中には独立したホテルはなく、道路沿いのレストランにホテルを兼ねていると表示がありましたが、住宅の中にもゲストハウスとプレートを出している家がみつかり宿泊させてもらうことにしました。
わたしが泊まったのは築100年くらいだという平屋で、中の3室にそれぞれシャワーとトイレを設置する改装をしたそうで、所謂民泊とは違いますが、かわいらしい芝生の中庭があるなど、貸別荘のような味わいがあって気に入りました。
ソフィアから近いこともあって観光客は少なくありませんが、そのほとんどがブルガリア人のようで少なくとも東洋人の姿はなく、そのせいか歩いているとときどき地元の人からハローなどと声を掛けられます。
アップダウンのある街は石畳の道が広がっていて、その多くが古民家なのでとても風情がありました。
作例は、いちばん迫力のあった建物ですが、直線的な石の壁に木の曲線を組み合わせた優雅さは、この町の建築の多くに共通するところです。

小さな町をさっさと見て別の町へ移ったりソフィアに戻る手もありましたが、とどまったことでよいことが2つありました。
明日、フェスティバルがあるそうで、民族衣装を着た女性たちの歌や踊りが見られるというのと、今夜は古民家でヴァイオリンとピアノのデュオの演奏会が聴けるということでした。
イスタンブールに滞在するかで悩んだり、ソフィアに着いてからもここまでどうやって行くのか苦労したりしましたが、結果的には選択が成功して、頑張ってきたことが報われたことになります。
お昼と夜にはそれぞれ別のレストランに入りましたが、メニューにポークがあり、ビールやワインがあるのに興奮しました。
料金も安く、マッシュルームのスープ、自家製ソーセージ、チーズのついたパン、グラスワインで600円ほとでしたし、正直、トルコの料理よりわたしにはずっと美味しく感じられます。
また、ビールは店で買うととても安く、500mlの地元ビールは100円もせず、ペットボトルのビールがあったり、2リットルの巨大なビールも普通に店頭に置かれています。
夕食後、ビールを飲もうと買いに行ったら、店の横で盛り上がる若者グループにつかまりました。
酔っぱらいですし、英語が通じませんが、何だか分からないうちに彼らの中に座っていっしょに飲んでいました。
イスラム圏の呪縛から解放されたからか、いつもなら避けて通る酔っぱらいのノリに合わせて、歌まで歌わされてしまいました。
酔っぱらいの騒ぎ方や歌いたがることなど、こういう感覚は世界共通なんだなあと実感します。
飲んだのはウーゾというアルコールが50度くらいの強い酒で、これを乾杯してはストレートでぐいぐい飲むので、あっという間にこちらも酔っぱらってしまいます。
彼らはチェイサーも合間合間に飲んでいましたが、よく見るとそれは水ではなく、ブルガリアらしいヨーグルトだったのには感心してしまいました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/14 Fri

岬を過ぎてバスは走る

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
寝たのは1時前くらいだったと思いますが、5時前にはたたき起こされました。
イスラムの毎日5回あるお祈りの1回目が大音量で流れて来たからです。
それまで気付きませんでしたが、築250年の美しい古建築の道路と反対側の並びにはモスクがあり、そのスピーカーからアダンが流れてきていたのでした。
10分くらい続いたでしょうか、半分眠ったままの頭で聞いたそれはなかなかの美声のテノールで、パレスティナで聞かされただみ声の高齢者のものと比べるとはるかに音楽的で、どうしても聞かなくてはならないのなら誰もがこちらを選ぶだろうとぼんやり考えていたのを記憶しています。
アダンの終了後にまた眠りましたが、7時に目覚ましをセットしていたので、慌てて飛び起き階下へ急ぎました。
この建物には20人くらい泊っていると言うのに、トイレもシャワーも1か所にしかなかったからです。
朝起きて来た人がトイレに行こうとしたら、シャワーを使用中で入れなかったというのでは申し訳ないですが、ここは中国人ばかりの寮のようなところなので、遠慮していたらシャワーもトイレもいつになるか分からないと朝一で独占させてもらいました。

昨日のメンバーと8時にいっしょに宿の朝食を食べる約束だったので、三々五々みんなは集まりましたが、驚くべきことに3人組のリーダー格の男性はアダンに気付いてなかったということでした。
あの団音量の中でも起きないとは、中国人恐るべし、です。
彼らは同室だったらしいのですが、大音量の中でも起きなかった男性は、歯ぎしりがひどくて他のふたりが辟易したと言っていました。
歯ぎしりなんて中国語は知りませんでしたが、摸牙というと教えてくれました。
歯をこするという意味の中国語なので、確かにそのまま歯ぎしりです。
朝食後彼らとは別れて、最初に会った中国人の女の子と博物館を訪れ、そのままバスターミナルに向かいます。
このままふたりで行動を共にするとしたら劇的な展開ですが、彼女はアンカラへわたしは
イスタンブールへ行くので、これでお別れです。
旅の一期一会はよくあることですが、わたしは頼ってくる人には徹底的に世話焼きだったりするので、彼女に対して気があったのではと思われる向きがあれば、残念ながらそういう対象ではなかったとお答えします。

わたしは、16日の夜の便でソフィアから東京に戻ることになっていて、残りの4日間をどうするかで少し悩んでいました。
ソフィアには1泊だけのつもりで、つまりは今日はイスタンブールに泊まって、明日の夜行列車でソフィア入りするつもりだったのですが、次回は翌週にソフィアから旅を続けるのでトルコに2泊して、ソフィアには泊まらないという選択肢もありました。
しかし、今回はドバイからアンマン、パレスティナ全域にトルコと、イスラム圏ばかりを旅してきて、イスラム世界にはうんざりしつつあって、今朝のアダンがダメ押しになったこともあり、イスタンブールには泊まらずこのままブルガリアに入ってしまおうかと考え始めていました。
イスラム教を蔑視するつもりは毛頭ないですが、食事や宗教上の習慣、人々との濃厚な付き合いなど、イスラム教社会には日本での生活と大きな違いがあって、短期の旅行ならその違いを楽しむ余裕も維持していられると思いますが、これはこれで結構なストレスで積み重なるにつれてかなりの負担になってくるということを感じていました。
イスタンブールはたいへん美しい大都会と聞いていたのでせめて1泊しようと考えていましたが、一方で、旅行者に対する土産売りやガイドの強要がしつこくてうんざりするところだとの話もあって、トルコの印象が悪くならないうちにブルガリアに脱出してしまうのも手にような気がします。

トルコには航空網・鉄道網が発達していて国土の広さのかなりの部分をカバーしているようですが、それにもまして民間のバス会社がしのぎを削っていて庶民の足となっています。
サフランボルのバスステーションには4~5社のバス会社のカウンターがあって、近くを歩いていると、一斉にどこに行きたいんだと声がかかります。
アンカラだと答えると、ウチは何分後に出るからなどと言ってきて、わたしはいちばん早く出るバスに決めましたが、ドリンクや軽食のサービス、バスの座席列やシートピッチ、映画や音楽などの車内エンタテインメント、料金や到着バスターミナルなど微妙に違いがあるようで本当はいろいろ比較検討した方が好いようです。
わたしが乗ったバスの車内では英語の表示があるものの、音楽も映画もトルコ語でしたかやっていませんでしたが、忍者2という言葉が分からなくてもストーリーが単純で日本人には突っ込みどころが多くあり退屈しない映画をやっていたので何となく見ることで時間をつぶしました。
本当はこういう時こそ、WIFIでメール作成したり、ブログなどの書き込みをしたりしたいのですが、WIFIが故障していて、昨夜宿で充電できなかったためにPCが使えずで、映画を見てみることにしたのです。
眠たかったのですが、ずっと寝てしまうとソフィア行きの夜行に乗った場合まったく眠れなくなるとまずいと思い、くだらない映画でがんばって起きていました。

イスタンブール市内に入っての渋滞もあって到着が1時間以上遅れましたが、途中、ボスポラス海峡を渡り、これでアジアは終わりヨーロッパに入ったんだと実感しました。
何か所か市内各地で停車して客を吐き出した後、終点の大きなバスターミナルに到着しました。
ソフィア行きはあるのか聞くと、何を当たり前なことを聞くんだという顔でもちろんとの返事です。
なるほどずらっと並んだバス会社のブースを見て歩くと、隣国のソフィア行きはもちろん、ざっと見てもベオグラード、ブカレスト、ザグレブ、ブダペストなどの東欧主要都市はもちろん、アテネ、ウィーン、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナなど西欧行きのバスも出ていることが分かりました。
ヨーロッパの鉄道駅で大きな掲示板に上述のようないろいろな行先を見て、旅愁を感じてしまう私は、ここでもしんみりしてしまうのですが、まずはバスを探さないとと200近くあるカウンターをすべて見て回りました。
ソフィア行きは4社出ていて、料金は5000円前後、1時間後に出発する夜行バスのチケットを買って、イスタンブール滞在はきっぱり諦めました。

ヨーロッパ全体の地図では、イスタンブールはトルコの中でも西に大きく突き出た位置にあるように見えるので、バスに乗ればすぐにブルガリアに入るのかと思っていましたが、6時半に出発したバスは12時近くなってボーダーに到着しました。
満席だったバスはその手前の町で半分以上の乗客が降りてしまって閑散としていましたが、国境では全員降りて出国審査に並びますので、あらためてまだ15名も乗っていたのかと最後尾で感心しました。
出国審査はスムーズでこれだけの人数でも5分も待てば全員終了して、再度バスに乗り込みます。
1~2分でブルガリアの入国審査に到着しますが、ここでも10分並ぶと全員ブルガリア入国のスタンプをもらいます。
トルコの出国より時間がかかるのは、係員がいちおうブルガリアの入国目的や滞在日数などを聞くからで、わたしは半分ふざけてブルガリアは美人で有名なので嫁さんを探しにと答えましたが、たぶん30年前なら別室で取り調べになっていたかもしれないところを、この係官はグッドラックと言いながらスタンプを押してくれました。
かつて東欧の出入国には時間がかかるということが言われていて、とくに荷物は念入りに調べられたようですが、バスの中に係員が乗り込んで来たものの形式的なあっさりしたものでした。
日本からスタートした旅も、本日117日目にしてアジアを離れ、ついにヨーロッパに入ったことになります。
そんな感慨もわかないうちにバスに乗るや否や、旅の疲れと安心感からかソフィアまでの数時間は眠りに落ちていました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(2) | 2015/08/13 Thu

ケーキ完食す

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
前夜は欧州サッカーの覇者によるスーパーカップがあって、ゼビーリャをくだしたバルセロナが幸先よく、2015年シーズンの最初のタイトルを獲得しました。
とは言え試合は大荒れで、延長までもつれたため、サッカー好きのトルコ人とわたしは夜中まで付き合わされることになりました。
この試合はジョージアのトビリシで開催されたのですが、ガザに行くなどとパレスティナでもたもたしてなれければ、わたしはアルメニアとジョージアには滞在するつもりだったのでスタジアムで観戦できた可能性が高く、そのことはたいへん悔やまれました。
ところで、自国にサッカーリーグのないかないに等しいヨルダンやパレスティナでは、サッカーというとバルセロナかレアルマドリードのいずれかを意味していました。
アジアではイングランドのチームが人気なのですが、中東になるとだいぶ様子が違うようです。
トルコにはもちろんリーグがあって、各地にクラブが存在しているのですが、どうしたわけかわたしが会った人はすべて、ガラタサライかフェネルバフチェのイスタンブールの2大クラブのいずれかのファンでした。
この2強のいずれかが存在して、その次に地元クラブか地元は無視なのかと思われます。

ネットで事前に調べてそこを訪れるという旅の仕方を回避して現地で聞いたり適当に次の目的地を決めて、気ままな旅をしてきたつもりですが、シブリヒサルがなかなかに素晴らしかったので、トルコの古い町と検索して次の行先を決めてしまいました。
サフランボルという町で、アンカラから比較的近くにあるようでした。
シブリヒサルから毎朝8時にアンカラ行きの小型バスが出ていて2時間強でアンカラに着きますが、途中の幹線道路沿いにバスステーションがあって、サフランボル行きはあそこから乗れるよと教えてもらいます。
サフランボルはシブリヒサルより大きい町のようですが、それにしてもアンカラから直行バスが何便も出ていると聞いてイヤな予感がしました。
結局、予感は的中するのですが、その前に布石とも言えることがありました。
バスの中で中国人の女の子が、あなたは日本人と聞いたがサフランボルに行くのか、終点で降りればいいのか等々、英語で聞いてきたのです。
そうだと答えると安心したようで自分の席に戻っていきます。
3時間ほどでサフランボルのバスターミナルに到着しますが、ここは町から若干離れているようでどうしたものかと行き方を聞くと、町への無料シャトルバスがあると聞きちょうど出るところでした。
わたしは走って飛び乗りましたが、先の中国人のことを思い出しちょっと待ってと運転手にお願いして、遠くに見えた彼女を大声で呼びました。
このことで、わたしはサフランボルのみの旅の道連れができることになります。

彼女はいちばん安かったという宿をネット予約したと言います。
地図で確認すると、シャトルバスを降りたところから1キロちょっと離れていますが、まあ20分も歩けば着くでしょうから、女の子ひとり旅の彼女の道案内を買って出ました。
それまで英語のやり取りでしたが、ここで白状して中国語ができることを説明すると、当たり前ですが驚いていました。
わたしは宿の予約をしていなかったので、同じ宿に泊まってもいいかなとは思いつつも、ここは古建築の宿があるに違いないと考えていたので、いちばん安いという彼女の宿には期待せず、通り道でいいところがあればそこに泊まるつもりでした。
それにトランクを引きずって坂道を1キロ歩くのは骨が折れます。
まあまあここならいいかなという宿があったので、そこに荷物を預けて彼女を案内したら戻るからと告げて身軽になって歩き続けます。
到着した彼女の予約していた安宿は、なんと築250年のわたしの理想の古建築でした。
部屋は空いているかと聞くといっぱいだが、一部屋何とかすると言ってくれます。
わたしは先ほど荷物を預けた宿には支払していなかったので、キャンセルできれば泊まりたい旨告げて、その宿まで戻ることにしました。
すると、ひとりで観光に行けばいいのに中国人の女の子もそこまでいっしょに行くと言いだしました。
来るときは下り坂でしたが、今度は登らなくてはならずいいよと言ったのですが、地図を見ると山道からでも行けるので、面白そうだしいっしょに行くと譲りません。
わたしが彼女に付き添ったのは英語がいまいち覚束ない彼女がひとりで宿を探せるのか心配だったからですが、ほぼ同距離を戻るわたしに付き合うという彼女はどういう気持ちからなのか少し気になりました。

途中、地元の子どもたちに食べてごらんと木の実をもらって、生だからかおいしくないじゃんなどと言ったりしながら荷物を預けた宿に着きました。
先ほど対応したのとは違う人だったので、急用ができてアンカラに行かなければいけなくなったと言うとあっさり信じてくれたので、荷物を持って築250年の宿に向かいました。
さすがに何度も歩かせるのは悪いと思い、タクシーに乗り込みました。
宿の奥さんにキャンセルに成功したと言うと喜んで部屋に通してくれましたが、入ってみてびっくり、トイレ・シャワーは共同と聞いてましたが、もともと物置だったに違いない小さなベッドを入れたスペースで2畳ほどしかなく、充電用の電気のコネクターは存在しないばかりか、灯りすらありません。
これで2000円、彼女の部屋は3人用ドミトリーでひとり1300円くらいですが、他に客は来なかったので独占できて、わたしよりよほどいいシングルルームになっていました。
今日はトルコの祝日だそうで、1組家族連れが泊まっていましたが、それ以外の客はわたしを除いてすべて中国人でした。
この建物自体が8室くらいあって20人は泊れそうでしたが、向かいにある離れも10人くらい宿泊できるそうで、総勢30人が泊まっているとのことです。
宿の奥さんの話では、ヨーロッパ人やアラブ人を泊めさせるとマナーが悪いしトラブルが起こるので、なるべくアジア人の宿泊に限定しているとのことでした。
レセプションには、日本、韓国、中国、台湾、シンガポール、マレーシアの国旗が掲げてあって、これらの国の人のみを歓迎しますよと暗に言っているようです。
アラブ人は問題が多くて最悪と言っていたのには同意しますが、ヨーロッパ人より中国人の方が好いというのは理解しがたいものがあります。

その後、男2名女1名の20代後半くらいの中国人グループがやって来たのでいっしょに行動することになりました。
温州の女の子が英語が達者で助かりました。
4人が高速でしゃべる中国語にわたしはついていけず、困ったりすると彼女が英単語に置き換えてくれてようやく会話に追いつく体たらくです。
逆にトルコに2日早く着いていて、それ以前にヨルダン、パレスティナを旅していたわたしがトルコ並びにイスラム関連の説明を買って出ました。
食事のときは、わたしはトルコでポピュラーなのでとヨーグルトドリンクを勧めましたが、甘くないヨーグルトは中国人には不評で、彼らが砂糖を入れて飲んでいるのには苦笑させられました。
日本人なら美味しく感じなくても現地の人が日常飲む味だと思えば、その時だけでもそのまま食べたり飲んだりするでしょうが、中国人の辞書には郷にいては郷に従えという言葉はないのです。
そういえば彼らは、体を洗ってくれてマッサージしてくれる施設があるので行ってみたいと言っていました。
それはたぷんターキッシュ・バスのことだと思うと説明しましたが、まさか日本の同名のそれと勘違いしていないか心配になりました。

宿ではパンケーキを焼いて待っているからと奥さんに言われていて、ひとり1個だろうとタカをくくっていたらその3倍はかごに入っていてまいりました。
トルコ人の胃袋で量を想像してしまうようですね。
中国人は好きなだけ食べて残すかと思えば、せっかく作ってくれたんだから申し訳ないと言って、みんなで共同作業的に完食しました。
中国人もやるじゃんと評価したいと思います。
おしゃべりするなかではいろいろな会話が出ましたが、ひとつ印象的だったのは天安門事件のことはよく知っていたのに、中国人初のノーベル賞受賞者が平和賞の劉暁波氏だということを知らなかったことです。
人権活動をして中国政府から何度も抑留され名前を消し去られそうになっているのですから当たり前ですが、彼らはその場で検索してわたしの言ったことを確認して、自分たちの無知を恥じていました。
国内のニュースだけを見ていたのでは政府のコントロール下に生きているようなものなので、ぜひ日本や周辺国との関係のことなど客観的に知ってほしいと言うとうなづいていました。
ケーキを残さなかった彼らには期待したいと思います。
さて、作例は、先に言った予感的中でいたるところ、中国人であふれていたためがっかりしてほとんど写真を撮らなかったので、トルコ人の結婚写真撮影現場を採らざるを得ませんでした。
日本ではウェディングドレス姿の女性が公園にいるなんて珍しいので、ついついレンズを向けてしまいますが、中国では結婚写真を野外で撮るのは日常の風景なので、中国人はわたしが街歩きの時にカメラを出さなかったのに、彼らを撮影するのを見て不思議そうな顔をしていました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/12 Wed

こうすればてっとり早い

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
メルシンから田舎道を経由してアンカラへ行く夜行バスは外国人旅行者が乗るような交通機関ではなかったようで、車掌というかアテンダントが乗務していますが、英語がまったく通じません。
メモでシブリヒサルに行きたいということは理解してもらったのですが、付近のサービスエリアに到着したときにタクシーを呼ぶとか言っているようで、そんなことされたら幾らかかるか分からないなどと会話にならないやり取りをしていると、となりの女の子のうちのひとりが英語を話せて、通訳を買って出てくれました。
バスを村の入り口で停車してそこにタクシーに待ってもらうので10リラ程度しかかからないとのことです。
女性二人組はこの先の町の大学に通う美人女子大生で、タンクトップにショートパンツの刺激的な格好をしていたので、イスラム教徒ではないのかと余計なことを聞きましたが、トルコではイスラム教徒であってもオープンな若者はこれで問題ないのだとすました顔をしていました。

それにしても、朝の5時に着くという話だったのがまさかの3時半着で、タクシーの運転手がやはり英語ができず、村の中心で夜を明かすという意味が理解してもらえずにホテルに連れて行こうとします。
この時間にチェックインすれば1泊分取られてしまうので、夜行バスの意味が無くなってしまうと話すのですが、ホテルの主人を起こして事情説明しています。
なんとなく話は通じたようで、ホテルでは部屋ではなく会議室のようなところに連れて行きソファーで休んでくれと、やはり英語が通じないのでジェスチャーで示してくれました。
バスでは寝たり起きたりの繰り返しだったので、ソファーに座るといつの間にか肘掛けにもたれて寝てしまい、8時になってようやく目が覚めました。
バスでもらったパンを食べてから、部屋にチェックインできるか聞きますが、やはり言葉の壁を破ることができず、荷物をおかしてもらって散策するという仕草をするとどうぞどうぞと送り出してくれます。

町はとてもコンパクトで、メイン通りの付近こそ普通の建物が並んで平凡な町に見えますが、1本路地を入るとタルソスのそれと少し似たところのある、2階部分がせり出した古民家が並んでいました。
いいなあと思うのは観光地化されていない土地だけに外装を無理にきれいにしたりということがないところです。
古びた外観のままの家があれば、日曜大工的に塗装したような家も多くあって町自体が観光客を意識している感じがありません。
塗装することが外壁を雨水から守る手立てでしょうから、見た目を気にしない素人仕事でも塗らないよりましということなのでしょう。
もうひとつここが好いのは、わたしの体力でもがんばれば登れそうな標高の高くない岩山が町の半分を囲んでいることです。
岩山の目立つところには、新しい建築のようですが、鐘楼のような時計台のような建物が見えています。
困ったのはハチが多いことで、これを書くとわたしがボーッと旅をしていると言われそうで恥ずかしいですが、肘をハチに刺されました。

午前中さんざん歩いて午後になったら土地のカフェのような店があって、お年寄りや仕事が休みでゆっくりしている男性たちが軒先に腰掛けて紅茶を飲んでいました。
当然のようにハローと声がかかり、こちらに来い、紅茶を飲もうと誘われます。
ここは紅茶屋なのでそのまま飲めますが、午前中は服の仕立て屋さんの仕事を見ていたら、やはり手招きされて紅茶をご馳走になったのですが、紅茶もコーヒーもデリバリーがあって、電話一本で届けてくれるようです。
日曜日だからでしょう、家の手伝いをする子どもが慣れた手つきで取っ手の付いたお盆を提げてかなりのスピードで歩いてやって来ました。
10歳くらいの子だったでしょうか、紅茶を受け取るわたしがよほど珍しかったようで、目を真ん丸にしていたのが印象に残っています。
ここでも言葉が通じず、仕立て屋さんと向かいの靴屋さんとはボディランゲージでコミュニケーションを取るばかりです。
トルコの言葉では、日本はジャポン、中国はチン、も韓国はそのままコリアというようです。
そういえば、子どもたちにチン、チンとはやし立てられたのを思い出しました。

午後のカフェには、英語をしゃべれる人がいて、よくある質問のやり取りに続いて、わたしを時計台のある山まで案内してくれました。
徒歩5分で山に登ったというほどではありませんが、そんな高さでも風が肌に心地よく、町を見下ろす景色と相まって連れて来てくれたことに感謝です。
町には11のモスクがあるとのことで、数えてみると確かにミナレットが11本立っていてそれが目で確認できるのが面白いなと思います。
そのうち一番重要だというモスクにも連れて行ってくれましたが、外観は石でできた体育館のような建物でパッとしませんが、中は木の柱が林立していて、いくつかの柱の上にはローマ時代の石の柱頭がくっ付いているという奇妙さに驚かされます。
向かいはお気に入りのカフェのようで、シミットというドーナツ型のパン3個と紅茶3杯をご馳走になり、ちょうどいいお昼になりました。
トルコ式の紅茶はとても濃くて、慣れないとおいしく感じられないのですが、このシミットを食べながら飲むと、地味なパンと濃い紅茶の味が相互作用を起こして、何だか旨いぞと気付かされます。
食べ物も飲み物も伝統的なものには、味に何かしら意味があるのだと気付かされる午後の紅茶のひとときでした。

夜は夜で宿の人の食事時にたまたま戻ったため、いっしょに食べようとパンとシチューのようなものを分けてもらいました。
パンをちぎってシチューに付けて食べる、恐らくはこの地方の一般的な夕食のようです。
デザートにはヨーグルトが付いていましたが、ヨーグルトの中にキュウリが入っているのもやはりこの地方独特なのかも知れません。
今日は3食パンばかりですが、朝バスでもらい、昼は英語の達者な人にご馳走になり、夜は宿にご馳走になり、紅茶は8杯くらいいただいて、食費を使わずに済みました。
さて、作例ですが、これはわたしのお気に入りなのですが、説明が無いとちょっと意味不明だと思われます。
可愛い子どもたちがいたので撮影していたところ、その騒ぎを聞きつけた目の前の家の女性が、2階の窓から顔を出してわたしも撮ってとアピールし、さらに何事かとやって来た旦那さんと思しき人が俺も入れてくれと言うと、優しい奥さんは愛する旦那さんのために窓を外してふたり仲良く写真に納まったと言うストーリーです。
そこまでして撮ってもらったのに、写真を見たがるということもなく、ただわたしに手を振るだけというのも不思議でしたが、窓を外すくらいなら下に降りて撮影してもらって液晶を確認すればよさそうなものなのに、何か降りてこれない事情があったかと想像すると不思議度は増すばかりでした。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/11 Tue

ここはすでにアジアになく

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
タルソスの町並みが気に入ったので他にもそんなところがないかと検索すると、シブリヒサルという町がやはり古い家が多く魅力的だとトルコ政府観光局のサイトに記載されていました。
この町の紹介で気に入ったのは写真が無くて、文章だけではどんなところか分からなかったことです。
その文章も日本滞在歴が長くて日本語は完璧に話すけど、文章を書かせるとやはり日本人が書いたのとは少し違うなと気付かせるもので、その微妙な拙さが旅愁を誘うようでまた気になりました。
アンカラからそう遠くないとのことで、アンカラへの行き方をホテルに相談すると、隣の旅行代理店に聞けばと言われアンカラ行きのバスに乗りたくて、できればそこからシブリヒサルへの行き方も調べてもらえるとありがたいと相談すると、ここメルシンから著効で行けるとのことです。
バスチケットを買おうとしたら、ウチは航空券専門なのでバスはバス会社に行ってと言われました。
アンカラまで飛行機で行くと思ったホテルマンの誤解で、わたしはよい情報を得ることができたということのようです。

バスターミナルに行くとシブリヒサル方面を通ってアンカラに行くバスが、シブリヒサルで降ろしてくれるそうで、出発は夕方6時半で朝の5時に着くとのことです。
これなら昨日行ったタルソスを再訪できるのでチケットを購入して、タルソス方向に行く路線バスに乗りました。
これまで乗ったバスは大型ワゴンなどをバスとして利用しているもので運転手か車掌に直接料金を手渡していましたが、路線バスはICカードを持っていないと乗車できないそうです。
当然、乗車拒否されると思ったのに、運転手はわたしの次の客にカードを2回タッチするよう命じてわたしを乗せてくれました。
その客のところに行って料金分を現金で渡そうとしますが、気にするなハハハと笑って受け取ってくれません。
言葉も通じないだけにきちんとお礼も言えず、ただただ申し訳なく感じるばかりです。

このバスは直行でタルソスまで行けば、時間ぎりぎりまでタルソスにいてバスターミナルへ直行しようと思っていたのですが、あと数キロのところで道を外れるらしく違う小型バスに移るように言われました。
運転手は昨日と同じクレオパトラの門のところで降りるように言い、昨日同様に歩いたのですが、夕方と昼日中ではだいぶ違います。
テレビの天気予報を見ると、トルコの多くの町が最高気温は35度前後まで上がりますが、最低気温は20度以下にまで下がります。
日中と夕方では歩くにしても大きな違いがあるのです。
散策はそこそこにランチを食べに昨日とは違うレストランに入ってみました。
非常に幸運なことに英語ができるスタッフがいて、きちんとメニューを説明してくれるのはありがたかったのですが、手の形を影絵のキツネにして写真を撮られライブ配信されると、トルコ中の仲間から同じポーズの写真が返信されてきて恥ずかしい思いをさせられました。
(筆者註、キツネの手の形はトルコではオオカミを指すそうで、何か意味があるらしいのですがニヤニヤ笑うばかりでそれを教えてくれませんでした)

彼らはこの後メルシンで用事があるそうで、メルシンまで送ってくれることになりました。
仕事が終わるまでの30分間、適当に散策して戻ってくることになりました。
やはり暑くてうだうだ歩いていると、オープンのレストランのオヤジさんとその息子と思しきふたりが手招きして写真を撮ってくれと言っているようです。
写真を撮ると、その液晶画像に喜び、チキンのサンドイッチをおごってくれました。
言葉は通じませんが、だからこそ、写真を撮ったり、ご馳走したりというコミュニケーションが成り立つんだということを教わったような気がします。
食べろと勧められましたが、いま食事したばかりでお腹いっぱいというジェスチャーをすると紙に包装してくれました。
これから夜行バスに乗るので食事をどうしようかと思っていましたが、これで大いに助けられましたし、バスの中で食べると確かに今までとは違う美味しさで、アツアツをその場で食べなかったことが少し悔やまれました。

レストランに戻るとふたりがメルシンに用事があるそうで、彼らの後部座席に乗ってメルシン方面へ向かいました。
ひとりは、タルソスの農産物関連の貿易商社の管理職で羽振りがいいのか、ボロい車が多く走るメルシンで新車のフィアットに乗っているのが目立ちます。
まだバスの時間に余裕があったので、カフェに行くことになりました。
海沿いの瀟洒な建物の中にお洒落なカフェがあって、ここではビールが飲めるので、みんなで乾杯しました。
よく言われるようにトルコは全面的に親日家の国で、一説によれば、それは日露戦争に勝利して仇敵のロシアを日本がギャフンと言わせたことに由来したとか聞きますが、彼らもまた日本が大好きで理由はよく分かりませんが中国嫌いでした。
ただ、ソウルのこともよく言っていたので、ソウルは韓国だというと非常に恥ずかしがっていました。
彼らの感覚では日中間の好い部分は日本に、悪い部分は中国にと勝手に解釈しているのかなと思いました。
用事にはまだ時間があるといって10キロ以上離れたバスターミナルまで送ってくれた彼らをわたしは他の国の人間と記憶違いしないように気を付けなければなりません。

作例は、タルソスの町でもいちばん立派と思われる建物です。
若いカップルがふたり道端に腰掛けていますが、メルシンやタルソスなどこのあたりでは同じように腰掛けている風景をよく目にしました。
キリスト教の聖人パウロにゆかりの遺跡がこのすぐ裏にあって、訪れる人は少なくないようです。
しかし、タルソス(彼らの発音はタルッソスと聞こえる)は名前からしてギリシャに由来してそうで、由来不明のクレオパトラ門も含めて、ギリシャ、ローマ、エジプト、オスマントルコ、セルジュークトルコ、キリストと多くの文明や文化がクロスした東西の十字路だったように思えます。
もしそうであるなら、私の旅もついにアジアからヨーロッパに移りつつあるということになります。
そもそもトルコってアジアなのかヨーロッパなのか、またそれを決める基準は何なのか、些細なことが気になり始めました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/10 Mon

イスラム式リゾートライフ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
昨夜遅くにアダナの空港に着きましたが、英語の通じない空港職員にどのように町に行けるか相談しているとドイツ人だという青年が助け舟を出してくれました。
ハスがあるというのですが、このバスはアダナの町には行かず、70キロ離れたメルシンというちころに行くそうで、アダナにはタクシーで行くしかないとのことです。
ドイツ人のマルクはメルシンに行くというので、わたしも彼に付いてメルシンに行ってみることにしました。
1時間ほどでメルシンに着くと彼の友だちがふたり待っていました。
マルクはトルコ系の二世ですでにドイツ国籍ですが、友だちたちはトルコ国籍でベルリンに出稼ぎに行っていてそこでマルクに知り合ったのですが、ドイツ人の差別にあって馴染めず、早々にトルコに帰国したということのようでした。
さらに彼らが近くにホテルを見つけてくれて、ドイツ人とトルコ人の協力により3時過ぎに宿に辿り着くことができました。

昼近くまで寝て、チェックアウトすると若いボーイがプレゼントだと言ってホテルのロゴが入った帽子や車用の芳香剤などをくれます。
彼もそうですが、3つ星が輝いているのが恐らく自慢のホテルだというのに誰もほとんど英語が通じません。
それなのにトルコ語のメルシンの観光パンフレットをもらって、ここには行くべきという表紙の遺跡へ行こうとしたのが失敗でした。
行き方を紙に書いてもらいましたが、3つ単語が並んでいて意味不明です。
通りに出て最初に来たバスにメモを見せると乗れと合図し、町の外れで停車していたバスを呼びかけ、今度はあれに乗り換えろと指示します。
車掌からチケット代が30リラというので何も考えずにわたしてしまいましたが、昨日乗ったアダナ空港からメルシンまでのバスの倍になってしまうので、そんなに高いはずはなく、他の乗客はそんなに払っているようには見えません。
運よくインテリ風の男性が近くの座席にいたので、話しかけると英語が通じて、正確な値段は分からないがあきらかに騙されていると忠告してくれ、何かあったのかと聞く老人にトルコ語で事情説明したらしく、それを聞いた乗客全員が怒り出したため、車掌が飛んできて22リラ返却してきました。
それが正しいとも分かりませんが、やはり車掌は騙そうとしていたようですし、わたしに気付かれても謝ろうともしないのがさらに腹立たしいです。

市内だと思っていた遺跡は、バスで1時間半もかかるはるか先の町でした。
と思ったら、終点でまた乗り換えるよう言われました。
このとき失敗だったのはホテルでもらったメモではなく、パンフレットの写真を見せたことでした。
跡で気付いたのですが、オスマントルコ時代の遺跡はメルシンの周辺部にたくさんあって、パンフレットの表紙にもなっている名高い遺跡はさらに先だったのですが、わたしが見せた写真を見たバスターミナルの係員は誤解して、別のところへ行くバスに案内してしまいました。
バスは今来た道をどんどん戻って、車窓から見えた遺跡のところでわたしを降ろしました。
こうなると、気付いたところでもはや戻る気は起らず、どうせ遺跡なんてどれも似たようなみのだと、そこを見てみることにしました。
もう3時になっていて、いい加減、お腹もすいていましたし。
近くのレストランはリゾート客でごった返していましたが、対応は良く、料金も高くありません。
トルコ風のピザだと勧められた料理を食べましたが、ビールはなく、アイランというトルコ式ヨーグルトドリンクがここではポピュラーなようです。

メルシンは地中海に面していて、ところどころビーチが海水浴場になっているてそれらにはホテルが併設しています。
海は透明度が低く、あまりきれいというほどではありませんが、リゾートとしての雰囲気は沖縄に似ているような気がします。
そんな中にオスマントルコの時代と思しき石の遺跡が点在しています。
遺跡が好きで海も好きでという人には大いにアピールする地で、作例は沖に浮かぶ島が城壁に囲まれている場所で、海に浮かぶ要塞のようで迫力がありました。
しかし、そんなところに来ても、イスラムの女性は水着はもちろんダメで、全身黒ずくめのままで気気温35殿の中、何しにこんなところへ来たのだろうと同情してしまいます。

帰りのバスの中でパンフレットを眺めていると、小さく古い町並みの写真が載っているのに気付きました。
トルコ語なので説明文は読めませんが、タルソスという町にあることは分かって、手とり足とり運転手に確認すると、どうやらタルソスに行くバスのところを通るそうで、そちらの運転手にこの日本人を連れて行ってくれと話してくれたようです。
そのバスも1時間近くかかってタルソスに着き、写真の場所はここからまっすぐ歩けと言っているようです。
すぐに大きな門の遺跡があって、クレオパトラ・ゲートという名前だと書いてありました。
それから道を訪ねつつ歩くと写真の町並みはすぐに見つかりました。
およそ100年以上前くらいの伝統的家屋がずらっと並んでいて、わたしには遺跡よりも魅力的です。
しばらく散策しましたが、すでに薄暗くなってきていてとても見きれないと観念しました。
明日また来ることにして、何軒かある古い家屋をレストランに改造した1軒でコーヒーを飲みました。
若者や老人など地元の人と見られる数組がビールを飲んでいます。
いちおうイスラム圏なのでアルコールは表面的にはご法度ということもあって、ビールを飲みたい人が集まる店なのかも知れません。
わたしもビールにすればよかったと悔やまれましたが、帰りの終バスの時間が分からないので、さっとコーヒーを飲んで早々に引き上げました。

帰りのバスでホテルの名刺を見せてどこで降りればいいか聞きましたが、運転手は分からずタクシーで行ってくれと適当な場所で降ろされました。
いちおうタクシーに聞いてみると1000円くらいのことを言われて、ちょっともったいないのでバスを探すことにします。
洗剤と歯磨き粉が切れたので雑貨屋に入るとどちらも家庭用の大きな奴しかなく、旅行用の小さいのを探しているという簡単なやり取りさえ通じないのにイライラします。
大きなスーパーを探してあちこち歩いていると、自分でも驚いたことにホテルの前の通りに辿り着いていました。
バスを降りたところから500メートル程度しか離れてなくて、タクシーは1000円と言ったようで騙されなくてホッとしました。
ホテルでスーパーを聞きましたがやはり大きなサイズしかなく、歯磨き粉はそれを買いますが、洗剤は巨大すぎるので、これもやや大きすぎるリキッド・ソープを買いました。
シャワーに使って、それで洗濯もしてしまうことにします。
続いて歩いているとレストランがあり、野外のテーブルでトリそぼろご飯のようなものを食べている人がいました。
美味しそうなので注文すると、見た目同様味も卵を乗せないトリそぼろご飯です。
今回の食事でいちばん美味しかったと言えるかも知れません。
サラダとペットボトルの水はタダで、250円ほどでした。
ホテルに戻って飲んだビールの方が少し高いくらいでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/09 Sun

交通機関ほぼ全運休

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
もうこれ以上ひどいホテルには泊まることがないよう祈りながらチェックアウトしました。
3時50分のフライトで、テルアビブからイスタンブールへ飛ぶので、今日でパレスティナともお別れです。
テルアビブの空港は警備が世界一厳重で、セキュリティチェックに時間がかかるので4時間くらい前に到着した方がいいと以前何かで読んだことがあり、あまりしたくはありませんでしたが、ネットでテルアビブ空港へのアクセスを確認しました。
エルサレムからバスで行くのが一般的なようですが、不思議なことに、テルアビブ空港からエルサレム行きのバスはあるのに、エルサレムからテルアビブ空港への直行バスは無く、鉄道に乗り換えなくてはいけないと書いてあり、その料金も記載があったのでATMで少額おろして交通費プラス軽食分の現金を手元に残しています。
ベツレヘムからエルサレムは何度か利用したサービスタクシーで行けると思っていたのですが、4人乗ったら発車する乗合タクシーでパレスティナとイスラエルの境界のところまで行き、ここから始発のバスに乗ってエルサレムに行きます。
途中から高速道路に入りますが、その直前に小銃を持った兵士が乗り込んできて全員のIDを確認しました。
このほかにもイスラエル側を通るサービスタクシーに乗ったりもしたのですが、そこではチェックが無く、どのような基準で兵士が待機しているのかが分かりませんでした。

エルサレムは、宿泊したところに近いダマスカス門のバスステーションが終点で、ここからならなじみがあり、トラムでセントラルバスステーションに出れば問題ないと安心しました。
しかし、バスの係員がトラムはないと言います。
理由はよく分かりませんが、恐らくユダヤの休息日である土曜日のためトラムは運休し、バスも行先によってはないか、かなりの間引き運転だそうで、ベツレヘムからエルサレムのバスにすぐ乗れたのはかなりの幸運だったようです。
それにしても困ってしまい、テルアビブ空港への行き方を聞くと、タクシーしかないと言われ、料金は6500円ほどが相場とのことです。
手元には3000円ほどしかなく、ATMへ行けばどうにかなりますが、それにしても休息日のせいで5000以上余分に払うのは馬鹿馬鹿しく感じます。
すると、テルアビブ市内へのサービスタクシーはあることが分かったので、時間に余裕があるので、バスの終点から鉄道なりバスなりでいけるのではと判断しました。
ところがこの運転手によれば、空港のゲートのそばが通り道なので降ろしてくれるとのことです。
ゲートまでは最初3300円で行くと言ってましたが、そばで降ろしてもらうと1000円ということなのでそれでよいとお願いしました。

40分でゲートそばに降ろしてもらうと、ゲートまで15分歩けばシャトルバスがあるとのことです。
楽勝かと思いましたが、炎天下の中で高速道路の路肩を荷物を引きながら歩くのは意外に大変でしたし、途中、ヘビの轢死体を見たのであまり路側すれすれは歩きたくありませんでした。
そのゲートに着くと警官に大声で呼び止められました。
わたしのパスポートを確認した後、こんな暑い日に歩いて空港に来るなんて何事かと思ったと笑いながら、水をくれたばかりでなく、シャトルバスなんてないのでと言って、通りかかったワゴン車を停めてわたしに乗るように交渉してくれました。
そのワゴンには10人くらいが乗っていて空席はありませんでしたが、助手席の男性が立ち上がってわたしに席を譲ってくれました。
もちろん固辞しますが、男性は聾唖者でわたしに理解できない手話を使って、笑顔で座るように言います。
ただ乗りさせてもらって、これでは申し訳ないとターミナルに到着してから荷物を降ろすのを手伝って、彼らとは別れました。

こんなに順調に来られるとは思っておらず、空港到着は離陸時間の5時間も前になってしまいました。
また4時間前に来いと言うのは過去の話のようで、チェックイン開始は3時間前とのことで、モノの高い空港でできるのはブログを書くことと本を読むことくらいで、気分転換にはなったような気がします。
わたしには、ディレイ癖が付いてしまったようで、またしても出発が遅れるとのことです。
2時間遅れとのことで、ペガサス航空というLCCでしたが、待っている間にドリンクの配布があったりしました。
立て続けに待ち時間ができてしまい、どうしようかと思っていると、ワゴンでわたしに席を譲ってくれた男性がいます。
どうやら同じ便のようで、先ほどはありがとうとあいさつに行くと、向こうも驚いて、言葉が通じればたぶんこれも何かの縁ですねのようなやり取りをしました。
するとそばの女性がわたしは彼の妹だと声を掛けてきて、互いに自己紹介になりました。
彼らは2人兄弟と奥さんと息子に妹、さらに友だち5人の総勢10名でトルコに旅行に行くとのことです。
イスラムのヘジャブを被った女性もいましたが、国籍は全員イスラエルとのことでした。
息子はわたしと同じFCバルセロナファンで、6月にバルセロナ旅行をして試合を見て来たとアイフォンで撮影したビデオを見せてくれましたが、ペドロがオーバーヘッドを決めた試合で、中継カメラが回っているのではと思うほどブレのないきれいな画像が、得点の瞬間に反転して自分の喜ぶところを映していたのが何とも面白く、映像を送ってほしいと思ったほどです。
10人全員と写真を撮ったり、フェイスブックのアドレスをもらったりして盛り上がり、初めてイスラエルの人と友達になったような気分になりました。

到着も遅れて夜の8時頃になりましたが、ちょうど機内からは日没と夕日を浴びたイスタンブールの町並みが見えてきれいでした。
遅れると分かって空港からのアクセスを調べたのですが、第2空港の方に到着で市街から遠く、ホテルも見るとさすがにイスタンブールは高かったので、一計を案じました。
そのまま地方のどこかに飛んでしまおうというものです。
格安航空券検索サイトでは、イスタンブールからトルコまでという検索ができて、トルコ国内の就航都市の一覧が料金付きで表示されます。
グーグルマップで位置を確認しながらあたっていくと、アダナという町が遠い割に6500円ほどと安く、ついでにホテルも確認するとイスタンブールの3分の1以下で、最初の行先をアダナに決定しました。
ところが予約しようとしても、最後のカード決済のページではじかれてしまいます。
出発数時間前ということで価格が、徐々に上がっていて、アダナ行きでも早い時間帯は倍の12000円になってしまいました。
そうしているうちに搭乗の時間になってしまい、ついにチケットは買えず終いです。

バスゲートだったのですが、そのバスから、入国審査、バゲージクレームとすべて偶然にも先の10人のグループといっしょになって、何だかストーカーになった気分です。
わたしはアダナ行きを諦めていなかったので、国内線出発フロアへ向かうため、最後のお別れをしました。
どうぞ、快適で愉しい旅行を!
非常に残念なことにこのイスタンブールの第2の空港にはWIFIがありませんでした。
格安券は断念して、1万円台前半なら買ってしまおうと航空券発券のカウンターに行きます。
価格を聞くと、不思議なことに6800円と格安航空券とほぼ同額でした。
大いに助かりました。
10時45分発12時05分着というずいぶんと遅いフライトですが、それより遅い便がまだ2つあるのがトルコ人の夜行性を表していそうです。
ここで食事しないとと慌てて、パニーニ・ドネルというサンドイッチを頼んだら、900円もするのにレンジでチンの出来合い品でがっかりです。
世界3大料理のトルコでの最初の食事だったのに。
そうそうしょげてもいられず、急ぎ足で荷物検査を抜けて出発ゲートを確認するため、フライトインフォメーションを見ました。
そこには、またしても「Delay」と書かれていたのでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(4) | 2015/08/08 Sat

彼らにも酒が必要だった

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
朝早めにホテルをチェックアウトして、通りに出てみてびっくりしてしまいました。
昨夜はとても活気のあった町の中心なのに、店がすべて閉まっていて、人通りもほとんどありません。
今日が金曜日でイスラムの安息日だからのようです。
朝食は諦めざるを得ませんでしたが、サービスタクシーのステーションに行ってみると車こそたくさん停まっていますが、利用する客がほとんど来ないためシーンとしていました。
ベツレヘム行きを見ると誰も乗客はなく、これではいつになったら発進するか予想もできません。
その建物から市場が見えて、市場は開いているのが分かったので、どうせ時間があるしと向かってみました。
果物売り場があったのでバナナを買い込みました。
今日の朝食は500グラム100円で買ったジェリコー産のバナナです。

戻ってみるとサービスタクシーはほとんど客で埋まっていました。
わたしは前の座席を取っておいたのにそこには女性が座っていて、運転手から最後部の座席に座れと指示されました。
狭い後ろはご免だったのでそれだったら乗らないと断ると、運転手が何でたと怒って、間を取り成した次に出発する車で行くことになりました。
あとひとりで発車できるのにわたしが辞退したため、なかなか次の乗客が来ないで発車できず運転手がイライラしています。
すると後に出るはずの車の方が、いま出発するので乗ってくれと言ってきました。
電話で家まで来てくれと大口の依頼があったようで、わずかに遠回りでしたが、大人数が乗り込んで来たおかげで、先のサービスタクシーより早くベツレヘムに着くことができました。
さっそく近くのいかにも安そうなホテルへ入ると、やはりシングルは100シェケルだというので泊まることにしましたが、ここもかなりボロい宿で、受付の医大生だという女の子が親切でなければキャンセルしているところでした。
というよりはキャンセルすべきところを彼女の顔色をうかがってそうせずに後悔しましたが、近くにあった新しいホテルは400シェケル(13000円くらい)だというので、わたしにとっては選択の余地はなかったのかも知れません。

祭りは夜からだというので、適当に歩いてから昼食にしようと思いましたが、ホテルに限らずベツレヘムの物価が高くて参ってしまいました。
ラマラーで4シェケルだったシュワルマ(回転している肉を削いでサンドイッチにして食べる)がどこに行っても12シェケル以上なので、買う気が起こりません。
小さな市でモモとマンゴーを7シェケルで買ってきてボロホテルに戻って寂しく食べました。
今日はフルーツしか食べてません。
ツーリストインフォメーションと書かれている建物には、インフォメーションらしさがまったくなくてほとんど売店だったのですが、現地のオリーブオイルがS16と書かれていてこれは安いと買おうとしたら、16シェケルではなく16ドルだと言われました。
ツーリストインフォメーションを名乗りながらそれではペテンじゃないかと怒りをぶちまけるところでしたが、キリスト生誕の地でもめ事はいかんと冷静になります。

午後になってものすごい光景を目にしました。
生誕教会から広場を挟んで向かい側にモスクがあるのですが、大音量でアダン(コーランだと思っていたのですがモスクから流れてくるのはアダンというのだそうです)が流れると、商店街の人が一斉に通りに出てカーペットを敷いたかと思うと、列になってお祈りを始めました。
目の前がキリスト教会でそれを目当てにやってくる観光客に対抗心を燃やしているからでしょうか、長い商店街の列と同じだけの長さにカーペットが敷かれて、同じ長さの人の列が額をつけて祈る光景は壮観としか言いようがありません。
石畳が人畳になった瞬間を目撃しました。

一方でとても意外なことも報告しておかなければなりません。
パレスティナは恐らく全土が敬虔なイスラム教徒ばかりのはずなのですが、なぜかラマラーにはリカーショップがあってビールやワインなどが売られているばかりでなく、地元でアラックを製造して売っていました。
この店がやたら流行っていますし、店の中でカシューナッツをつまみにイスラエルのビールを飲んでいるイスラム教徒のおじさんと親しくなってしまいました。
さらにベツレヘムではビールも製造していて多くの人が祭りが始まる前から飲んでいました。
わたしも挑戦しましたが、暑かったのでラガーを飲んだのですが、酸味がやや強くてわたしの好みの味ではありませんでした。
スタウトとかペールエールなどもあったので、そちらの方が得意の醸造所なのかも知れません。
生まれてこの方アルコールを口にしていないというモハンメド君にこの事実を報告したら何というでしょう。
まだ、わたしがガザに行けなかったショックで凹んでいるかも知れないので、しばらくしてからお前の国は乱れてるぞと言ってやることにしましょう。

祭りはそこそこ楽しませてもらいましたが、バザーなどは物価の高さそのままに売られているものが高くて買い物できませんでした。
作例は、バザーのお留守番をしていた少女で、生粋のムスリムのパレスティナ人だそうです。
白人のような色白で二重瞼にはグレーの瞳が輝いていて、髪は自然にカールしています。
彼女は典型的なヨーロッパ人としかわたしには見えません。
日本人NPOの皆さんは、指圧のブースを出していてわたしも疲れをほぐしてもらいました。
さらには、日本人の女子大生がいて、旅行かと声をかけるとボランティアで来ていると言ってわたしを驚かせました。
パレスティナの中にはイスラエルに故郷を追われたパレスティナ難民が多くいるのだそうで、彼らを助けるボランティアですが、とくに紛争状態など緊張が続いた中で子どもたちの心のケアがたいへんな問題になっているので、その大切な役割をボランティアが担っているそうです。
わたしのカバンから物を盗って逃げたヘブロンの子どもたちのことを思い出しました。
彼らにも本当はボランティアが求められているのでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/07 Fri

100年前の工数の瓶

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ナブレスにどんな名所があるのか分かりませんが、旧市街の古い町並みはわたしには圧倒的で、何より観光客がいないので地元の人たちと自分とで町を共有しているような私物化感が気に入りました。
中世の建物が連なり、細い石畳の道が縦横に張り巡らされていて、どこにいても美しい町並みと出合え、観光客のいないリトル・エルサレムのような感じです。
朝からまた散策すると古い建物の内部を見せてもらったり、昨日は見つけられなかった階段からつながる別の小道を発見したりして、迷宮を彷徨うような、時間と空間を見失ったような不思議な気分を味わいました。

もう一度行こうと思ってもなかなかたどり着けそうもないような位置になぜか骨董品屋がありました。
いやむしろ古道具屋と呼んだ方がふさわしい、現地の廃屋から拾ってきたものを並べただけではないのかというガラクタが新しい持ち主が現れることを期待せずに待っている風情です。
ここに何かあれば、それこそ本当の掘り出し物と言えるでしょう。
やはり積極的に欲しいと思うようなものは何もありませんでしたが、気になるものが2種見つかりました。
ひとつは、アラブ的な装飾の入った真鍮のとても小さな壺のようなもので、店主が手に取って教えてくれたところでは、そのアラベスク風装飾部分を回すと外れてその先が中の液体に浸かっていて、それでマスカラを引いたのだそうです。
1950年ころのものと思ったより古く、真鍮製なので素材として魅力がありましたし、一目でアラブと分かる装飾も記念になります。
もうひとつは、ガラスケースに入っていたオレンジのビンで、口の部分が植物の装飾になった黒い金属でしたが、恐らく銀だと思った通り、店主の説明はシルバーでケースに入れてあるのはそのためのようです。
これも予想通り香水入れでしたが、男性用で、アールヌーヴォー風装飾に見えましたが、パレスティナで1920年代に製造されたものだとのことです。
前者が約700円、後者は3600円で、金額を気にすれば前者だけ買えばよいし、このくらいなら両方買ってもいいかとも思います。
わたしは、銀とガラスの香水入れの方が何となく気に入りました。
そのまま一輪挿しとして使えそうですし、アラブ男が使っていた香水入れなんて、なんとなく神秘性を感じます。
マスカラ壺は、次に現れるであろう旅行者のために残しておいてあげましょう。
価格交渉しましたが、600円ほど下げてもらって、ちょうど3000円で買えました。
よく考えると1920年なんて古いものとは考えにくいですが、ホテル代より若干下がったのでまあいいかという気持ちで手に入れました。
店を出て、こんなところに見つけた骨董品屋の証拠写真を撮ろうとしたところ、店主がカギを掛けて出て行ってしまいました。
まさか今日は1点売り上げがあったので商売終了と考えたのでしょうか。

収穫を大切にトランクに仕舞って、サービスタクシーでラマラーに向かいました。
サービスタクシーというのは8人乗りのワゴンタクシーで、行先が決まっていて乗客がいっぱいになったら出発する乗合バスのようなものです。
バスよりは少し高いですが、タクシーよりはずっと安いので、パレスティナ人の足として活躍しています。
今日はベツレヘムに行くつもりでしたが、またホテルがひどくてトイレ掃除を依頼されるのはごめんでしたし、ラマラーのホテルは設備が新しく電話などで世話になったので、宿泊はここにして、日帰りでベツレヘムを往復することにしました。
ホテルに着くとまた来たのと歓迎してくれ、わたしもおじいさんとツインに1泊しただけなのに我が家に戻った気分でした。
ここに来たもうひとつの理由は、衣類の洗濯でした。
ランドリーが見つけられないでいたので、トランクに入れっぱなしだった中国で購入した洗剤で洗って干しておけば、ベツレヘムから戻るころには乾いているでしょう。

またまたサービスタクシーでベツレヘムへ向かいます。
サービスタクシーの座席は先着順で最初の到着だと助手席に座れて快適ですが、長らく待つ必要があります。
一方、最後のひとりだと最後列の真ん中の席で、両隣がいかついアラブ人だとたいへん窮屈な思いをしなければなりませんし、みんな運転が荒いのでうっかりすると酔ってしまいます。
いちばんいいのは客が集まる人気路線で、後ろの座席になりそうだったら、1台やり過ごしても次のがすぐに来て10分もすればいっぱいになるでしょう。
ベツレヘムはあまり人気路線ではないようで、なかなか人が集まらず20分以上待つことになりました。
キリスト生誕の地として生誕教会いうのがありますが、アブラハムの時、ブッダの生誕の地同様、これといった感慨はありません。
誰だと感激するとかということよりも、長い旅行で価値観のようなものがマヒしてしまったのかと心配になります。
とても美味しいものでも毎日繰り返して食べれば、そのおいしさが分からなくなってくるようなものです。

ここには面白いものがありました。
スターズ・アンド・バックスいう某チェーンカフェとそっくりのロゴを使ったカフェがあり何だこりゃと笑ったら、しばらくさきに、スター・バックスがありました。
こちらの本物はスターズ・アンド・バックスにクレームは付けないのかと思ったら、この本音のそっくりの方の壁に大きくメニューが書かれていて、最初がネスカフェになっていました。
どうやらこちらも偽物のようです。
他にはサブウェイもありましたが、これには小さく1stと書かれていてファースト・サブウェイが正しい店名のようです。
もちろんロゴはサブウェイと同じもので、メニューは確認していませんが、サンドイッチ屋であることはまちがいありませんでした。
KFCもあったので、じっくり観察しましたが、こちらは偽物の証拠がつかめませんでした。
けっこう繁盛していたので、唯一の本物か、精巧な偽物か、わたしには判別不可でした。

さて、作例は、偶然通りかかった中世風の鼓笛隊です。
バグパイプやサックスなどパレスティナの古典音楽ではなく、恐らくキリストゆかりのスコットランドから持ち込まれた音楽ではないかと思われますが、詳細はまったく分かりません。
この日は町のお祭りだそうで、バザーのような催しがあったかと思うと日本からのNPOも参加していて、驚いてしまいました。
あいにく間もなくラマラーに戻る終バスの時間でしたが、明日も祭りは開催するとのことなので、それなら明日はベツレヘムに宿泊してじっくり見てもいいかなと思いました。
夜は、またご飯が食べたくてレストランの場所を聞いて、ひとり繰り出していきました。
ジダンによく似たマネージャーが対応してくれて、彼のおすすめだというトリのモモと混ぜご飯のようなものを頼みました。
ヨーグルトのスープがあるというのでそれもオーダーすると熱い液体ヨーグルトの味で意外にいけました。
料理の方も申し分なく量が多すぎて半分も残したのが申し訳なかったのですが、日本人はこんなにも食べないのかとジダンに驚かれてしまいました。
だからでしょうか、少し金額をお負けしてくれました。
食事してディスカウントというのは、初めての体験でしたが、これもヘブロンで正直に支払したことがよかったのではと、これからも正直な旅を続けようと誓わせしめたのでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/06 Thu

日本人の株を上げられたか

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
ヘブロンの町とわたしはどうもしっくりきませんでした。
昨日、ホテルを出て散策を始めた矢先に子どもたちに囲まれ何か言われますが、分からずにいるとその間に別の子どもにバッグのポケットに入れていた地図や単眼鏡を盗られ走り去られました。
気配を察した地元の人が駆けつけて残っていた少年を設問し、叱責すると逃げた子どもが戻って来て返却してきましたが、へらへらしていて悪いことをしているとか、詫びるとかいう感覚ではなさそうです。
以降、子どもには警戒するようしたのですが、別の子どもからはすれ違って少ししてから石を投げつけられました。
命中することなく脇を外れて行ったので実害なしですが、振り返ると、その子どもはやはり走って逃げて行きました。
ヘブロンに限らずパレスティナではどこでもそうですが、チャイナとかニーハオと子どもから揶揄されます。
最初はチャイナじゃないよといちいち答えてましたが、大人も含めてあまりに同じことを言われるので無視することにしました。
無視されれば気分は悪いでしょうが、向こうは中国人と思っているので、もうどうでもよくなっていました。

アブラハム・モスクに近くなると、今度は太った中年男性から声を掛けられました。
だいたいこういうケースは胡散臭いので適当にあしらうのですが、ウチは100年前の家に住んでるしすぐそこなのでちょっと見て行ってくれと言うのに同意してしまいました。
確かに古い家で奥さんや子どももいて、何か悪いことをするという感じではなさそうです。
かたわらにミシンが置いてあって、財布や小さなカバンが置かれているのを、妻がハンドメイドしているので興味があれば買ってくれると嬉しいと言います。
コーヒーもご馳走になったので、ブレスレットでも買おうかと思ったのですが、2~300円と思ったそれが700円と聞いて、この男性の胡散臭さが再浮上してきたので断って席を立ちました。
待て、良ければガイドもするから、あなたは友達だから6000円だけでいいと、本性が露わになったので、逃げるように家を出ました。
財布やカバンはその後同じものをあちこちで見かけたので、妻のハンドメイドは嘘で、ミシンまで置く演出で騙そうとしたようでした。

他にもオマーンで日本の企業の仕事をしたことがあり、日本人にはたいへんお世話になったので、恩返しのつもりでガイドするとか、自分は何とかいう組織で活動していて町のPRのためなので料金はあなた次第でいいのでガイドするとか、胡散臭い連中が寄ってたかってわたしにすり寄って来ました。
その間も間断なく、ニーハオ攻撃があちこちからあり、できることならこの町から一刻も早く出て行きたいと思うほどうんざりしました。
ただ好いこともあって、キャッシュがなくなったので銀行の場所をホテルに聞くと、歩いて行くと言うわたしを静止してタクシーを捕まえその料金を支払ってくれ、あとで返そうとしても受け取りませんでした。
また、ホテルに教えてもらったレストランが美味しく、久しぶりにサフランライスを食べて満足したのですが料金が予想より安く、いったん会計してしばらく歩いたところでドリンク代が請求されていないことに気付いて、向こうのミスだとそのままにしようと思ったものの、おいしい食事をさせてもらってそれでは申し訳ないと、レストランに戻って事情説明して再度精算してもらったところ、店員が数人集まって、あなたはとても正直だとか、どこの国の人か、日本人はみなそうするのかとすっかり感心してもらいました。
これが町のニュースになって、日本人は正直者、ニーハオと話しかけるのは止めましょうとなれば嬉しいのですが。

さて、早々にもチェックアウトするつもりでいたのに、痛いことになってしまいました。
愛用のトランクのカギが壊れてしまい、ロックしたまま開かなくなってしまったのです。
ホテルで近くに鍵屋さんがないか聞くとタクシーで行く距離だとのことで、さすがに今回はタクシー代を出してはもらえず、鍵屋もさすがにこれを外す技術はなく、力でこじあけて、ロック部分はバカになってしまいました。
イギリスから取り寄せたトランクは外観こそボロですが、古道具のような味わいがあって気に行っていましたし、ロック部分は真鍮でしっかりしていて、こんなにあっけなく壊れるとは思っていなかったので、旅のパートナーが怪我してしまったようなショックを受けています。
ロックは2ヶ所あってひとつは問題なく、壊れた方は何とか閉まるものの、ドンという衝撃などがあるとロック部分がバンと開いてしまいます。
旅の中ではそれほど支障ないものの、飛行機に預けるときはテープで留めるとか工夫が必要です。
スーツケースの現地調達も考えましたが、何しろ思い入れあるトランクで、日本にいるときに海外版寅さんのドリンクのCMを見ていたら、その寅さんがそっくりなトランクを持っていて、わたしもああいう実らぬ恋をしながら旅し続けたら楽しそうだと考えて、ますますトランクに愛着が湧いていたところで、これしきのトラブルで捨ててなるものかと思いなおしました。

続いて向かったのはナブレスという町ですが、ヘブロンから直行のバスは無くいったんまたラマラーで乗り換えなくてはなりません。
しかし、ここでひとつ問題解決のために先日おじいさんと泊まったホテルに立ち寄ることにしました。
モハンメド君のお父さんの友だちがラマラーに住んでいると聞いています。
そこで、モハンメド君からお父さんに連絡を取ってもらって電話番号を聞き、ホテルの人に電話してもらって、ここまで来てもらいました。
モハンメド君の家族へ日本からお菓子をお土産に持って来ていて、その処理に悩んだのですが、そのお父さんの友達が送付してくれるのではとモハンメド君が言うのです。
もし無理でもせめてお父さんの友だち一家に食べてもらえば、日本とパレスティナの友好関係にごくわずかにプラスになるでしょう。
抹茶の甘いお菓子とあられのセットですが、どちらかでも気に入ってもらえればはるばる持って行ったことが報われます。

その後着いたナブレスは、ヘブロンとは正反対に実にわたしにフィットする町でした。
バスを降りたところで歩き出すと、すれ違った男性が、どこに行くんだいと話しかけて来たので、ホテルを探していると言うと、この近くにあるホテルは高いので、まっすぐ行った先のところがいいよと教えてくれました。
確かに後で確認すると好い方のホテルは1泊15000円だそうで、そんなホテルを勧められなくてよかったのですが、宿泊した方のホテルがまたひどくて、トイレが汚れていたので掃除していないのではと抗議すると、いきなり洗剤を手渡されて掃除してくれと言われました。
客にトイレ掃除させるホテルなんて世界中そうはないでしょう。
ホテルが少なくてショボかったのはナブレスが有名な史跡など無くて、観光客があまり来ないことと関係あるようですが、実はこれがわたしには好かったのです。
夕方、古い町並みを散策すると商店街になっていて、写真を撮りながら歩いていると、パン、ケーキ、伝統的お菓子(?)を次から次へとご馳走になってしまいました。
たぶん外国人が珍しいので歓迎の印として、自分のつくった土地のものを食べてもらいたかったのだろうと思います。
何しろ2時間も歩いたのに観光客の姿はまったく目にしませんでした。
作例は、焼き立ての熱々パンをご馳走してくれた少年です。
さすがに焼いたばかりのものをすぐ手渡されたので抜群に香ばしさがあって、食感ももちもちしており、何も付けなかったのに十分美味しく感じられました。
それに掲示されているアラブ人、よく見ると若き日のアラファトさんの写真です。
何だか好い写真で、これまた実に気に入りました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(2) | 2015/08/05 Wed

ゴーストタウンの少女

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
たまたまガザへの出国審査で知り合った老人とは、昨夜、食事をともにし、今朝もいっしょにブレックファストを食べに行きました。
彼は、1980年代にガザを脱出してサウジアラビアで教師になり、カダフィ政権下のリビアに移ったのち、アメリカに移住して教師を続け晴れて米国籍を取得して数年前に引退したとのことでした。
わたしよりはるかに英語が達者で、ガザへのパーミッション申請の電話をかけてもらえるだけで、ホテルの部屋をシェアした意味がありました。
しかし、昨日から何度電話しても誰も出ません。
老人もわたしも口にはしませんでしたが、イスラエルが最初からわたしたちにパーミッションを発給するつもりなどなく、ウソの電話番号を教えてあしらおうとしたのは明らかに思えました。
老人はあきらめよく、あんたには済まんが、ワシはこのままアンマン経由でアメリカに帰るよと言って、去って行ってしまいました。
バスまで見送りに行くと、世界一周でアメリカを通るようならぜひウチに寄ってくれと電話番号をくれます。
今回の結果を報告するためにもぜひ会いに行きますと言って別れました。

マレーシア留学中のモハンメド君とはパレスティナ入り後ずっと連絡を取り続けていましたが、わたしがガザに入れなかったのがショックだったようで、高飛車な彼らしくもなく、何度も済まないと詫びていました。
それに彼の父親がイスラエルとの検問所でわたしを待っていたとも書いてきました。
きっと、招待のためにご馳走を用意していたに違いありません。
いつ来るのかと首を長くして待っていてくれたであろうモハンメド君のお父さんのことを考えていたら何だか涙が出てしまい、もはや絶望的とは分かりながらもなんとかガザ入りできないかと探ってみることにしました。
たまたま宿泊していたホテルから徒歩圏に、在パレスチナ暫定自治政府日本国政府代表事務所という施設があり、訪問して相談してみることにしました。
日本人がいると思ったのに職員は英語の流暢なパレスティナ人で、わたしの英語力で理解してもらえたか冷や汗ものでしたが、問題はイスラエル側の対応にあるのでパレスティナではどうにもできないのですとの、分かりやすい返事をもらいました。
あとできるとすれば在イスラエル日本大使館に問い合わせることくらいでしょうと電話番号を渡してくれます。

大使館に電話するのは2度目のことになります。
最初ははるか昔の卒業旅行で、夜行列車の車内で盗難にあい、警察に行った後に大使館に助けてもらえと電話番号をもらったのですが、出て来た職員はウチに電話されても何にも助けられない、自宅に電話したらとあっさり切られてしまい、不快な対応に腹が立ち、わたしの外務省に対する不信のきっかけになりました。
今回もイヤな気分になるかと最大限丁寧に電話すると、親切丁寧に回答してくれ、自分が何も確認せずにガザに行こうとしたことを恥じる結果になりました。
ガザには事前申請のあるジャーナリスト、国連関連、一部NGOだけに日本政府がレターを出しているそうで、いくら地元の人からの招待だと言っても一般人には渡航禁止のお願いをしているそうです。
事態の変化が激しく大使館としても情勢をつかめないこと、また、アメリカ人とカナダ人の一般人がガザ入りしたものの、イスラエルは半年以上も戻ることを認めていないそうです。
恐らくわたしがガザに入れば、同様にイスラエルによってガザに足止めされるだろうと言うのが大使館職員の意見でした。
ジャーナリストや人権活動家などのバックがある人ならともかく、ガザのパレスティナ人と行動していろいろと話を植え付けられた人間を簡単には自国に帰すことはできないというのが、イスラエルの立場だということのようです。
ガザに入るよりも戻ってくることの方が難しいと聞いて、わたしは大使館員にお礼を言い、ガザ行きを完全に諦めました。
モハンメド君にもその事実を伝えます。

ガザで数日過ごすことを前提にテルアビブからイスタンブールへ飛ぶ航空券を買ってしまっただけに、パレスティナとイスラエルで日数を消化しないといけません。
モハンメド君から、エルサレムとジェリコー以外では、ベツレヘム、ヘブロン、ナブレスなとどの町がよいとの連絡があり、素直にそれらの町を訪れることにしました。
パレスティナは国連への加盟が認められていますが、首都をエルサレムとして申請したことは認可されず、実質的にラマラーが首都機能を持っているそうで、上記の町へのバスがいずれもここラマラーからあるとのことでした。
どこに行っても行かなくてもどうでもいい感じですが、まずはヘブロンに行ってみることにしました。
バスではなく、サービスタクシーと言う8人乗りのワゴンが満員になると出発する乗合バスのようなものです。
1時間半ほどで到着しましたが、この運転手が親切な人で、安いホテルを探してくれとその前まで行ってくれました。

ホテルは120シェケルというのを頼み込んで100シェケルに負けてもらいました。
レセプションのラミさんは政治的な活動をしている人だそうですが、そのせいか外国人には親切で、モスクとハンディクラフトの工房に行くよう地図を渡しながら説明してくれました。
また、フランス人写真家のマチューさんと言う人が長期滞在していて、やはりガザにも行きたがっているようでこの間の経緯を説明すると、ラミさんとふたりで熱心に聞いてくれ、アメリカ人たちがガザエリアに軟禁状態なことにイスラエルへの怒りをあらわにしていました。
彼らによれば、ここヘブロンには旧約聖書で知られるアブラハムの墓があるアブラハム・モスクで名高いそうで、ぜひ見に行くように勧められました。
アブラハムは、紀元前18世紀に神の預言者として活躍した人で、100歳のときに最初の子を授かり175歳で亡くなってこの地に葬られたそうで、旧約聖書上の人なのでキリスト教のみならず、イスラム教でもユダヤ教でも聖人とされていて、ヘブロンがパレスチナに属することからモスクに墓があるということのようです。

アブラハムが175歳のときってどんなだったのだろうという興味を除いて、またしてもこれら史跡を訪れても興味を感じませんでしたが、そのモスクの近くにとても関心を惹く場所がありました。
その名もゴーストタウン。
イスラエル側の説明文によると、パレスチナが「ついでの戦争」を2000年にこの地で仕掛けて犠牲者が出たためこの辺の商店や住居を一斉に閉鎖してしまったのだと書かれています。
パレスチナ側にも言い分があって、ここヘブロンからイスラエルが撤退することが協定で決まったのに、例のアブラハムの史跡があるためか全面撤去しないため、ずっと緊張状態にあったのだそうです。
実際、この町はエルサレムを除くと唯一、パレスティナ人とイスラエル人が区域を分けて共存する町で、両国間で何か問題が起こるとすればそれはここからなのだろうという緊張感をはらんでいました。
作例の少女は、もっともイスラエル寄りのパレスティナ側に住んでいて、わたしがイスラエル兵士を遠巻きに撮影していたところ、わたしも撮ってとモデルを買って出てくれました。
しかし、こんな場所に暮らしているからでしょう、ちょっと一筋縄でいかないぞと思わせる雰囲気が作例でも感じられるのではないでしょうか。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/04 Tue

エルサレムに死す

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
エルサレムでは近郊にあるオリーブ山とゲッセマネの園が必見の場所だそうですし、初日に城壁内からホテルに戻るときにオリーブ山に行く路線バスがあることに気付いたにも関わらず、面倒くさくて見に行くことをしませんでした。
3度目の正直とばかりモスクに向かいましたが、短パンで行った私にそのままではモスクに入れないと、1000円で布きれを貸そうとするオヤジと口論になり、その騒ぎを聞いたイスラエル警官も巻き込んで、そんなんで1000円とはイスラム教が聞いてあきれる、イスラエル人の方がよほどまっとうじゃないかと捨て台詞を吐いてモスク行きを断念しました。
もともとモスクは偶像崇拝を排したためほとんど装飾がないため中にはこれといって見るべきものがなく、靴を脱いで体育館に入るようなものなので、たいがいは面白くもありません。
ただ、ボロ布をちょっと貸して1000円と言うのは、ヨルダンのホテルでもそうだったように、イスラム的な強引な商売の手法で、文句を言うならモスクに入れなくなるなるだけだと言っているようで、それではパレスティナへの理解が進むことはなく、トータルでは我々が損をしてしまうというところに思いが至ることのないアラブの性格をどこまでも表現しているように思えてなりません。

ジェリコーとエルサレムにそれぞれ2泊ずつしてしまったので、今日はモハンメド君から招待されているガザに向かわなくてはならないだろうと、セントラルバスステーションに向かいました。
ハスステーションでガザに行きたいと言うと、そんなバスは無いし、ガザには行けないとビシッと言われてしまいました。
ツーリストインフォメーションなど何人かのイスラエル人には同様のことを言われていますが、パレスティナ人からは行けると返事をもらっていますし、何よりモハンメド君の家族がガザから招待してくれているのです。
イスラエル人は恥部を探られたくないので行けないと言っているが、実際には意外と簡単に行けるのだろうとタカをくくっていました。

ガザに行くバスが無いのは事実なようなので、地図で確認してガザに近いアシュケロンという町に行くことにしました。
バスの発車までまだ10分あるとのことで水を買いに行ったのですが、驚くべきことに250円もしました。
ジェリコーでは100円なので、2.5倍もします。
バス乗り場に戻ると乗客が乗り込むところで、わたしはトランクをバスの荷物置き場に置くことにします。
軍人がたくさん乗っていて、荷物も多いためこのままではトランクが入れられず、軍人の重たいリュックを奥にずらそうとしていた時でした。
荷物入れの扉が突然自動で閉まり、わたしは体が挟まれないよう腰と右手の肘でとっさに抑えました。
しかし、扉の閉まろうとする力は強くずるずると押し込まれて行きます。
大声で止めるように叫びますが、聞こえないようでさらに扉が下がって来て、このままでは圧死してしまうという恐怖にかられました。
さらに叫び続けると乗客の軍人が気付いたようで降りてきて、運転手に扉を開くよう指示してくれました。
ぎりぎりのところでドアが上がり、わたしはホッとしたこともあってその場にへたり込んでしまいました。
その間にも何人もの軍人が降りてきていて、みな大丈夫か怪我はないか聞きますが、わたしは痛みより恥ずかしさが先行して大丈夫だと答えてしまい、じゃあバスに乗ってくれと軍人に言われて乗車し、最前列の席を替わってもらってバスは発車しました。

人がいるのに確認せずに荷物置きのドアを閉めたのは運転手の過失です。
恥ずかしさが引くと、肘を擦りむいてわずかに出血していたり、右手を突き指していることに気付きました。
運転手は何事もなかったかのようにこちらを見もしないし、ましてや謝ることもありません。
その態度に腹が立ち、終点のアシュケロンに着いたら、病院と警察に連れて行けと言い、業務上過失傷害罪で訴えるなどと考えていました。
しかし、あれほど心配してくれていた軍人たちはもう知らん顔で、彼らはわたしを心配したのではなくトラブルでバスの出発が遅れるのが心配だっただけのようでした。
こんな奴らだからパレスティナを爆撃しても何も感じないのかとまたしても腹が立ってきました。
しかし、バスが終点に着いてわたしが運転手に近づくと、初老の運転手は涙目になって申し訳なかった怪我はなかったかと聞き、料金を受け取ろうとしません。
彼はこんなことになってかなり動揺したものの、とにかく職務は全うしようと運転に神経を集中させてきたようでした。
そして、到着したことで、自分のしたことに感極まって泣いてしまったようです。
ここで警察になどと言って彼の残りの人生を危機にさらすことはできず、バス代タダだから許すかと考えて、わたしはいさぎよくバスを降りたのでした。

しかし、ここからは予想通り公共交通機関でガザ方面には向かえないと分かりました。
タクシーが止まっていたので聞くと、ガザとの検問所まで15キロあって120シェケルとのことで、これだと4000円ほどもしてしまうので、何台か交渉します。

なかなか100シェケル以下になりませんでしたが、1台70シェケルのタクシーがあったので飛び乗りました。
15分ほどで、ヨルダンとイスラエルの国境に似た建物が見えてきます。
車を降りて歩いて建物に入ると、普通の出国審査よりも如何にも作りが頑丈なパスポートコントロールがあって、係員が開放しないと入れも出れもしないブースで厳重に審査が行われるようでした。
否が応でも緊張しますが平静を装い、ジャーナリストかと聞かれノーと答え、ガザへの目的はと聞かれ友人の家族から招待されたプライベートな訪問と答えますが、今回は求婚されることもなく、パーミッションの申請が出て無いので待っているよう戻されてしまいました。
ガザに戻ると思われる家族が通ったほかは、もうひとり老人がいるだけでした。
スーツケースを開閉するとき鍵を落としたのを拾ってあげたことで、こちらに話しかけてきました。
彼はガザ出身ですが、30年以上前に脱出して今はアメリカ国籍を取ってニュージャージーに住んでいるが、妹に会いに何年振りかでやって来たそうです。
前回はエジプトとガザの国境が開いていて難なく入れたそうですが、今ではエジプトの国境は閉鎖されていて、とにかくここまでやって来たとのこと。

しばらくしてふたり同時に呼び出されました。
まずはパーミッションを申請する必要があり、ここに電話しろと番号の書かれた紙を渡されました。
この出国審査はもう閉まるので、申請後にまた出直すようにとのことです。
何もない荒野のようなところだったので、いったん町に戻る必要があります。
車が1台停まっていてプライベートのタクシーをしており、エルサレムに近いラマラーに100シェケルで行くとのことで、老人とともに乗り込みました。
すぐそばのアシュケロンから70シェケルだったことを考えると、良心的な値段と言えました。
運転手は親切な男で、ラマラーに安い宿はないかと聞くと探してくれ、その前で降ろしてくれます。
1泊100シェケルだというのでチェックインすると、別のホテルに行くと思っていたアメリカ国籍の老人がやって来て自分も泊まると言います。
シングルは100シェケルと教えてあげると、ツインの部屋をシェアしようと言います。
ツインは150シェケルなので、ひとり75シェケルです。
今さっき会ったばかりの老人と、タクシーの中で別れたのに、こうしてまた何かの縁でホテルの同じ部屋に泊まることになってしまいました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/03 Mon

パレスティナ人のデモ部隊

Leica Sonnar 5.8cmF1.5
城壁内にユースホステルがあって、シングルの部屋もあるとのことでホテルを移ることにしました。
古い建物を利用しているので、屋根などが修道院のようで趣があるのが気に入ったのですが、シングルはプレハブ小屋のような建物ですし、料金も前夜のボロホテルとほぼ同額だったので、どっちもどっちのあまり意味のない選択になってしまいました。
城壁内なら夜とか早朝の散策が楽しめるかも知れないと考えましたが、結局、夜は出歩きませんでした。
ユースなのでメインはドミトリーですが、若いフランス人のグループとあいさつをする機会があって、むしろ彼らと同室のドミトリーの方がよかったかと少々後悔しました。
何しろ部屋は古い建物の側にあって、中世の修道院で寝泊まりするような雰囲気を楽しめたでしょう。

昨日はイスラム教の礼拝日だったため、モハンメド君に勧められていたアル・アクサー・モスクに行けなかったので、あらためて本日行ったのですが、結果を言えば、入場後にすぐ追い出されてしまいました。
作例がその理由を語っていて、未確認情報ではラマラーという町付近でユダヤ人過激派がパレスティナ人の家を襲撃してプラカードの女の子が犠牲になったため、女性や子どもがデモをおこない、この事実を伏せたいイスラエル政府がデモを挙行されたモスクをすぐさま閉鎖してしまったのでした。
作例の場所は、モスクの出口付近で、普段から衝突が起きないようにイスラエルの警察が出入り口を固めていますが、彼らが常駐していることがデモの場所として選ばれる理由になったようです。
この場所でのデモ参加者は30人くらいと規模は大きくありませんが、カメラマンを含めたパレスティナ側のマスコミが10人くらいいました。
わたしは最初、写真を撮っているのがマスコミと気付かず、自分も写真を撮らなければと何枚も撮っていると、警官につまみ出されてしまいました。

昨日は、エルサレムのパレスティナ人とユダヤ人は仲良くとは言わないまでも、隣人同士として意識しながら暮らしていると感じたのですが、けっしてそんな甘いものではなく、何かが起これば一触即発で緊張が走るのだということを知らされました。
この後には、正装のユダヤ人がとおった後ろから水をかけるパレスティナの若者を見ました。
彼は一般人だから、そんなことをしても何の解決にもならないのではと言うと、青年は分かっていないなお前はという顔で、アラビア語で何か言いながら立ち去っていきました。
水をかけられたユダヤ人も気付いただろうに、振り返ることもなく通り過ぎて行きました。
ここで喧嘩にでもなればますます立場が悪くなったり、パレスティナ人に集団暴行されかねないのかも知れず、そのまま立ち去ったのは正しい行動に思えます。
日常的にこういうことに慣れてしまっているように感じられました。
敵対せずに暮らしていると昨日感じたことが、今日、早くも翻ってしまい、自分の眼の不確かさにガッカリせざるを得ませんでした。

これも先日書いたことですが、パレスティナ人とイスラエル人とははっきり外観が違うと書きましたが、子どもを見るとどちらか分からない子がたくさんいます。
あきらかにパレスティナ人だろうなと分かる子どももたくさんいますが、ちょっと西洋人ぽいのでイスラエル人かと思えば、パレスティナ人の子だということが何度かあって、まったく分かっていないことを思い知らされました。
ヨルダンでもそうでしたが、色白で肌が卵のようにつるつるしている西洋人っぽい女性が多くいますが、子どもも同様なようで、おまけに目の色が青やグレーの子どもがパレスティナ人と分かったりすると、眩暈がするようです。
いちいち何人かと聞くわけにもいかないので直感的に言いますが、7割の子はアジア的なパレスティナ人だと分かる顔立ちでしたが、3割は西洋人風でイスラエル人と言っても分からないような顔をしていました。
こうなると、顔つきは同じで、身に付けているものも若干違うとはいえ似た者同士で、信仰だけがはっきり違うために対立し、憎しみ合っているようで、ただ、歴史と宗教に翻弄される気の毒な人々と感じられてくるばかりです。

城壁内で食事するととんでもなく高くなることを知ったので、ランチは外に出てパレスティナ人の多いエリアでサンドイッチをテイクアウトしました。
チキンは高く、ビーフのハムにチーズとサラダを挟んでもらって450円くらいもするので、やはり少々高いですがエルサレムの物価を考えると止むを得ません。
これが意外に美味しくて、エルサレムではいちばんコストパフォーマンスのよい食事に思えました。
とはいえ、夜もこのまま同じものではどうかと考えていたところ、似たようなものですが、ホットドッグとドリンクで500円と言う店があり、頼んでみました。
しかし、ポークでないソーセージは不味く、これはあきらかな失敗でした。
昼も夜もファストフードということになりますので、ビュッフェ式のボロホテルの朝食がサラダやフルーツ、ヨーグルトもあって、ヘルシーでいちばんだったということになりそうです。

また、城壁から別のゲートに出たとき、近くのイスラエル人の雑貨屋にビールが置いてあるのに気付いてしまいました。
夕方の暑さの中で我慢できず、小瓶のイスラエルビールを350円近くも出して買ってみます。
カタカナで「ユコカアブコ」と書いてあると思えば間違えで、イスラエルの文字でマカビーという名前のオールモルトのラガービールでした。
ゲート脇の木陰で栓を抜いてゆっくりと味わいながら飲みます。
小瓶から飲むと味が少し濃厚になって感じられるような気がするのですが、それを割引いてもずいぶんコクのあるビールのような気がしました。
真冬に暑いコーヒーをすするように、一口ずつ味わって飲みました。
エルサレムでは歴史に思いを馳せながら、時がくだるのを確認するように一口一口と飲むことで、各民族の興亡を理解したつもりになれるのです。
ほんとうは、歴史を語り合う仲間が一緒にいてくれるといいですが、今日はその代わりをマカビーを名乗るイスラエル人がしてくれているようなものです。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ライカ・マウント・レンズ genre:写真
Leica-Sonnar 5.8cmF1.5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/02 Sun

真夏でも黒のコートで

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ジェリコーの町は遺跡ファンには天国ですが、わたしにとっては2泊は長すぎでした。
宿を紹介してくれた男性の勧めもあってエルサレムに移動することにしました。
ただし、公共のバスなどはないそうでどうするか聞いたら、お前は幸運だ、なぜなら宿のオーナーがエルサレムから来ていて、ちょうど明日エルサレムに戻るので乗せてもらえばいいとのこと。
タダなのかと聞いたら少し金を渡せばいいと言うので額を確認すると6000円くらいのことを言うので、どこが少しなんだとまた衝突してしまいました。
宿の持ち主はジェリコー出身ですが、エルサレムでタクシーの運転手をしていて週に1度ジェリコーに帰ってくるとのことで、わたしを乗せて帰ればガソリン代が浮いてお釣りがくると考えたようです。
わたしがそんなに高いならヒッチハイクでもして行くからいいと断ると、値段がどんどん下がって最終的には2500円ほどになりました。
それでも高いと思いましたが、バスがないいうのである程度のところで妥協しなければと考えました。

タクシーはチェコのシュコダ製で、当然ながらナンバーはイスラエルのものなので、ジェリコーとエルサレムを自由に行き来できます。
エルサレムまでの距離は知りませんでしたが、1時間ほどと聞いていたのに、無料の高速道路を順調に走るとものの20分で到着してしまいました。
また、あの男に一杯喰わされました。
ホテルが多いと言う中心部で降ろしてもらいます。
さっそく見つけたホテルで値段を聞くと12000円ほどだとのことで、思わずその高さにのけ反ってしまいました。
平凡な安宿にしてどうして高いのか、ふっかけているのかと思い、もう1軒あたるとそこも同価格帯で、これはダメだとホテル予約サイトで確認すべくカフェに入りました。
そのカフェのメニューも高く、ブランチにしようとたのんだいちばん安いハンバーガーのポテトなしで800円ほどしました。
そしてホテルの価格を見ると、シングルの最低で6500円ほどして、仕方なくその価格帯でいちばん評価の高い徒歩圏のホテルを予約しました。
推定築40年の老朽ホテルですが、エアコンとWIFIがあるのは何よりありがたいですし、推定通りだとすれば少なくともわたしより若いので、あまりボロイと言うのは自己否定になりそうでやめておくことにします。

エルサレムはご存知のようにキリスト教、イスラム教、ユダヤ教がそれぞれ競って聖地として崇めてきたため、収奪が繰り返され傷だらけの聖地とでも呼ばれるにふさわしい町になっています。
幸いだったのは聖地だったために虐殺があっても破壊はあまりなかったようで、多くの史跡がそのままのかたちで使われ続けていることです。
大きく破壊されたのはソロモン王が建造したエルサレム神殿で、その後ヘロデ王によって再建されまた破壊された後に残るのがよく知られたユダヤ教の聖地、嘆きの壁なのだそうです。
ダビデ王の墓やキリストが十字架を背負わされ歩いた悲しみの道、またその3日後に復活した石墓など、現地のパンフレットをそのまま訳していくだけでもブログの枚数が尽きてしまわんばかりです。
試しに歩けば、15メートルおきくらいには何かを記したプレートが歴史を知らしめていて、全部読んでいたら先に進んでいけません。

地図を見ると城壁の内側は4つのエリアに分かれていて、それぞれイスラム教地区、キリスト教地区、ユダヤ教地区、アルメニア人地区となっています。
パンフなどでは、3つの宗教の他になぜアルメニア人の地区が存在するのか理由は書かれていません。
アルメニア人地区もキリスト教会があるので、キリスト教エリアとしてもよさそうなものですが、何か歴史的理由があるということなのでしょう。
各エリア間には特に柵で制限しているなどということもなく、各地区の住民や旅行者が自由に行き来しています。
イスラエルの警官が大量に配置されていますが、特に緊張感があるわけでもなく、例えばパレスティナ人がユダヤ人を敵視しているとかそういうそぶりはまったく感じられません。
逆に親しくしている雰囲気でもなさそうですが、互いにそれなりに尊重し合っているだろう空気を感じて何だかホッとしました。

ユダヤ人は独特の正装で歩いている姿をよく見かけました。
作例のように、気温35度くらいの中でコートに帽子の黒づくめで、この男性はひげが目立ちますが、髪の毛の正面部分を剃って、左右を伸ばしてカールさせている男性が多くいました。
声を掛けづらい雰囲気ですし、レンズも向けにくく、作例のようなバレにくい位置からの隠し撮り風に撮るしか勇気が起きませんでした。
この帽子を被っていない人も、キッバーという遠くからだとカッパのお皿のようにも見える頭全体を覆わない帽子を被っています。
女性の方も正装なのでしょう、ドレスに近い白い服装が清潔感を表しているかのようですが、やはり帽子を被っているのが特徴です。
ここまで正装でない女性は、特徴的な柄の民族衣装のような服を着て、頭にはスカーフをしています。
そこで気付いたのですが、男性のキッバーにしろ女性のスカーフにしろ、イスラム教の帽子やヘジャブと似ていて、面積や被り方が違いますが、起源が同じで宗教の発展とともに形態がかわったのではないかと思わせます。
男女とも両者の帽子とスカーフの形態はよく似ていて、個々に見たらどちらか分かりませんが、エルサレムで双方を見ることができたことで、違いが分かり、もともとは同じものだったのではと想像をめぐらすことができました。
イスラムとイスラエルという言葉からして語尾が変化しただけのように聞こえるではないですか。

エルサレムはホテルだけでなく、全体に物価が高いのが難点です。
ジェリコーで100円ほどだった1.5リットルのペットボトルの水が160円、レストランの料理も倍くらいして、シュワルマという肉塊が回転しているのを削いでパンにはさんだりする料理を頼むと1500円もとられて唖然としました。
ジェリコーで300~500円ほどのものです。
そういえば、ジェリコーではFukharaという料理を名前につられて食べたことを思い出しました。チキンとポテト、ニンジンなどを煮込んだ料理で、料理そのものよりも一緒に出て来たサフランライスがシンプルなピラフのような味でご飯そのものが久しぶりだったのでとても美味しく感じられました。
卓球の愛ちゃんも中東に遠征の際には、ぜひこのフクハラとサフランライスを召しあがってもらいたいものだと強く思いました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/01 Sat
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