ゴーストタウンの少女

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
たまたまガザへの出国審査で知り合った老人とは、昨夜、食事をともにし、今朝もいっしょにブレックファストを食べに行きました。
彼は、1980年代にガザを脱出してサウジアラビアで教師になり、カダフィ政権下のリビアに移ったのち、アメリカに移住して教師を続け晴れて米国籍を取得して数年前に引退したとのことでした。
わたしよりはるかに英語が達者で、ガザへのパーミッション申請の電話をかけてもらえるだけで、ホテルの部屋をシェアした意味がありました。
しかし、昨日から何度電話しても誰も出ません。
老人もわたしも口にはしませんでしたが、イスラエルが最初からわたしたちにパーミッションを発給するつもりなどなく、ウソの電話番号を教えてあしらおうとしたのは明らかに思えました。
老人はあきらめよく、あんたには済まんが、ワシはこのままアンマン経由でアメリカに帰るよと言って、去って行ってしまいました。
バスまで見送りに行くと、世界一周でアメリカを通るようならぜひウチに寄ってくれと電話番号をくれます。
今回の結果を報告するためにもぜひ会いに行きますと言って別れました。

マレーシア留学中のモハンメド君とはパレスティナ入り後ずっと連絡を取り続けていましたが、わたしがガザに入れなかったのがショックだったようで、高飛車な彼らしくもなく、何度も済まないと詫びていました。
それに彼の父親がイスラエルとの検問所でわたしを待っていたとも書いてきました。
きっと、招待のためにご馳走を用意していたに違いありません。
いつ来るのかと首を長くして待っていてくれたであろうモハンメド君のお父さんのことを考えていたら何だか涙が出てしまい、もはや絶望的とは分かりながらもなんとかガザ入りできないかと探ってみることにしました。
たまたま宿泊していたホテルから徒歩圏に、在パレスチナ暫定自治政府日本国政府代表事務所という施設があり、訪問して相談してみることにしました。
日本人がいると思ったのに職員は英語の流暢なパレスティナ人で、わたしの英語力で理解してもらえたか冷や汗ものでしたが、問題はイスラエル側の対応にあるのでパレスティナではどうにもできないのですとの、分かりやすい返事をもらいました。
あとできるとすれば在イスラエル日本大使館に問い合わせることくらいでしょうと電話番号を渡してくれます。

大使館に電話するのは2度目のことになります。
最初ははるか昔の卒業旅行で、夜行列車の車内で盗難にあい、警察に行った後に大使館に助けてもらえと電話番号をもらったのですが、出て来た職員はウチに電話されても何にも助けられない、自宅に電話したらとあっさり切られてしまい、不快な対応に腹が立ち、わたしの外務省に対する不信のきっかけになりました。
今回もイヤな気分になるかと最大限丁寧に電話すると、親切丁寧に回答してくれ、自分が何も確認せずにガザに行こうとしたことを恥じる結果になりました。
ガザには事前申請のあるジャーナリスト、国連関連、一部NGOだけに日本政府がレターを出しているそうで、いくら地元の人からの招待だと言っても一般人には渡航禁止のお願いをしているそうです。
事態の変化が激しく大使館としても情勢をつかめないこと、また、アメリカ人とカナダ人の一般人がガザ入りしたものの、イスラエルは半年以上も戻ることを認めていないそうです。
恐らくわたしがガザに入れば、同様にイスラエルによってガザに足止めされるだろうと言うのが大使館職員の意見でした。
ジャーナリストや人権活動家などのバックがある人ならともかく、ガザのパレスティナ人と行動していろいろと話を植え付けられた人間を簡単には自国に帰すことはできないというのが、イスラエルの立場だということのようです。
ガザに入るよりも戻ってくることの方が難しいと聞いて、わたしは大使館員にお礼を言い、ガザ行きを完全に諦めました。
モハンメド君にもその事実を伝えます。

ガザで数日過ごすことを前提にテルアビブからイスタンブールへ飛ぶ航空券を買ってしまっただけに、パレスティナとイスラエルで日数を消化しないといけません。
モハンメド君から、エルサレムとジェリコー以外では、ベツレヘム、ヘブロン、ナブレスなとどの町がよいとの連絡があり、素直にそれらの町を訪れることにしました。
パレスティナは国連への加盟が認められていますが、首都をエルサレムとして申請したことは認可されず、実質的にラマラーが首都機能を持っているそうで、上記の町へのバスがいずれもここラマラーからあるとのことでした。
どこに行っても行かなくてもどうでもいい感じですが、まずはヘブロンに行ってみることにしました。
バスではなく、サービスタクシーと言う8人乗りのワゴンが満員になると出発する乗合バスのようなものです。
1時間半ほどで到着しましたが、この運転手が親切な人で、安いホテルを探してくれとその前まで行ってくれました。

ホテルは120シェケルというのを頼み込んで100シェケルに負けてもらいました。
レセプションのラミさんは政治的な活動をしている人だそうですが、そのせいか外国人には親切で、モスクとハンディクラフトの工房に行くよう地図を渡しながら説明してくれました。
また、フランス人写真家のマチューさんと言う人が長期滞在していて、やはりガザにも行きたがっているようでこの間の経緯を説明すると、ラミさんとふたりで熱心に聞いてくれ、アメリカ人たちがガザエリアに軟禁状態なことにイスラエルへの怒りをあらわにしていました。
彼らによれば、ここヘブロンには旧約聖書で知られるアブラハムの墓があるアブラハム・モスクで名高いそうで、ぜひ見に行くように勧められました。
アブラハムは、紀元前18世紀に神の預言者として活躍した人で、100歳のときに最初の子を授かり175歳で亡くなってこの地に葬られたそうで、旧約聖書上の人なのでキリスト教のみならず、イスラム教でもユダヤ教でも聖人とされていて、ヘブロンがパレスチナに属することからモスクに墓があるということのようです。

アブラハムが175歳のときってどんなだったのだろうという興味を除いて、またしてもこれら史跡を訪れても興味を感じませんでしたが、そのモスクの近くにとても関心を惹く場所がありました。
その名もゴーストタウン。
イスラエル側の説明文によると、パレスチナが「ついでの戦争」を2000年にこの地で仕掛けて犠牲者が出たためこの辺の商店や住居を一斉に閉鎖してしまったのだと書かれています。
パレスチナ側にも言い分があって、ここヘブロンからイスラエルが撤退することが協定で決まったのに、例のアブラハムの史跡があるためか全面撤去しないため、ずっと緊張状態にあったのだそうです。
実際、この町はエルサレムを除くと唯一、パレスティナ人とイスラエル人が区域を分けて共存する町で、両国間で何か問題が起こるとすればそれはここからなのだろうという緊張感をはらんでいました。
作例の少女は、もっともイスラエル寄りのパレスティナ側に住んでいて、わたしがイスラエル兵士を遠巻きに撮影していたところ、わたしも撮ってとモデルを買って出てくれました。
しかし、こんな場所に暮らしているからでしょう、ちょっと一筋縄でいかないぞと思わせる雰囲気が作例でも感じられるのではないでしょうか。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
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Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/04 Tue

アツアツのピザをどうぞ

Squire & Co 14cmF3.6
UAEもそれなりに広いので、砂漠サファリとか紅海の大物釣りとかのアクティビティを考えるとけっして退屈な国ではないだろうと思います。
しかし、ドバイに限定してしまうと、世界一高層のホテルやらでのホテルライフ以外に楽しみは一切なさそうです。
そういうホテルが存在しなかった20年近く前に1度ヨーロッパの経由地としてドバイに数日滞在したことがあります。
ドバイに行ってみたかったというよりは、近寄りがたい雰囲気を発していた中東に一度足を踏み入れてみたいと思ってのことで、その時もすることがなくて思い付きでレンタカーを借りてラクダの隊商らしきものを見かけたりしながら砂漠の上のハイウェイを飛ばしてオマーンまで行って折り返して来ただけの何もない滞在でした。
そういえば、船中泊のフィッシングツアーがあると聞いて、参加できないかと船長まで会いに行ったところ、ずいぶんと大きなクルーザーで2泊3日15万円くらいのことを言われて即答で断ったことも思い出しました。

一般的に滞在中の国で見かけた人は現地人と見なせますが、UAEの場合、外国人労働者を相当数受け入れているようで、わたしが会った人がUAE人かそうでないのかなかなか判別できないのが困りました。
というより、ひとりもUAE人を見かけた可能性すらないのではと心配です。
肌の黒い南アジア系の顔立ちの人が多いのですが、これを前回はすべてインド人とみなしていましたが、宗教的なことを考えればパキスタンやバングラデシュ人もいる可能性が高いと思われます。
カトマンズからドバイのフライトもそれなりに混んでいたので、ネパール人もUAEには少なくないと推定できます。
アフリカ系と思われる黒人も多く見かけます。
モーリタニアやソマリアなど東アフリカにいくつかイスラム国があるそうなので、それらの国から来ている可能性がありますが、わたしには彼らの国籍を特定するのは不可能です。

最難関は中東風の顔立ちやコスチュームの人々です。
彼らは、地元ドバイの人なのか、UAEのどこか地方から来ているのか、あるいは周辺国から来ているのか、そういうことが一切分からないし、失礼なので聞くこともできません。
以前、何かで見たことがあるのですが、産油国UAEは税金や社会保障費が極端に安い一方で公務員なども高収入なので、労働的な仕事はすべて外国人が引き受け、現地人はもっぱらオフィスワークに従事するとのことでした。
ドバイの町中にはショッピングモールやスーパーマーケットがこれでもかというくらいに多いのですが、そこで見る警備員やレジ打ちなどには見る限りUAE人はいなさそうです。
全然お客さんがいなくて暇そうにしている店員などはUAE人っぽいですが、もちろん確証はなくこれだったら失礼でもないので聞いてみてもよかったかなどと思ったりしています。

そのUAEも20年前にはまったく見なかった中国人が大量に存在していました。
中国料理店はそこかしこで見ましたし、中国人旅行者が多いのもとても目につきました。
香辛料を多く扱う通りがあったのですが半分観光地化したそこは、わたしが歩いているとニーハオと声をかけられ、わたしでは聞き取れない恐らく何か香辛料の名前を中国語で言って中に招じ入れようとします。
わたしはアラビア語が分かりませんととぼけて言うと、今度は日本語で、こんにちはサフラン、バニラあるよと切り替えてきます。
こうなるととぼけきれず、断って逃げるしかありません。
このあたりに東洋人が来たら、彼らのファーストチョイスが中国語で続いて日本語と、日本人より中国人がずっと多く来ているだろうということを証明してくれています。

暑い暑いドバイを日中散策すると、どこかでビールで休憩したくなりますが、さすがに厳格なイスラム国だけにビールを入手するのは困難です。
外国資本の高級ホテルのバーに行けば高価だがある、という情報を得ましたが1泊だけなのでそこまでする必要はありません。
あきらめていましたが、ふと、スーパーに入ると小ビンのバドワイザーが並んでいました。
こっそりこういうものも売られているのか、それとも滅茶苦茶高くて誰も買えないような値段なのかとよく見ると、ラベルにNAと書かれています。
ノーアベイラブルかと思いましたが、言うまでもなくノンアルコールと解するべきでしょう。
130円ほどと他の炭酸飲料よりは倍くらい高いですが、思ったよりは安かったので1本試してみることに。
日本のノンアルコールビールがどんな味かはよく分かりませんが、たくあんを1日浸けておいたような何ともえぐい味がしました。
日本のノンアルコールがこんな味でないことを強く願いたいとだけ思いました。

中東らしい政治とは裏腹のアメリカへの憧憬があるためか、ドバイにはハンバーガーをはじめアメリカっぽいファストフードをあちこちで見ました。
ケバブバーガーなんかは美味しそうで、できれば食べてみたかったと残念です。
言うまでもなくマクドナルドやケンタッキーはあちこちにありましたし、日本で何年か前に大流行したクリスピークリームドーナツも見かけたのは、これでもかという甘さが現地で受け入れられていることを意味していそうです。
作例は宅配ピザですが、灼熱の中をムスリム服で正装しながらバイクというのがユニークです。
よく見るとヘルメット越しにこちらをにらんでいる様子が分かります。
気温が45度ですので、のんびり宅配したとしても、いつでも熱々のピザが食べられるのが受けているのかも知れません。
【Alpha7/Squire & Co. 14cmF3.6 F3.6】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/24 Fri

同じ民族に見えません

Squire & Co 14cmF3.6
ボドガヤで出合った日本語のできるインド人の話によれば、パキスタンも、バングラデシュも、ネパールも、スリランカも民族はみなおなじインド人とのことでした。
そしたらモルディブもそうかと聞けば、彼はわたしに指摘されたのを照れながら、そうモルディブもと付け加えました。
彼の言わんとする正確な意味はよく分かりません。
例えばインド国内だけでも民族や宗教、言葉がいくつにも分かれていて、ガンジーの肖像が書かれた10ルピー札には15の言語で表記されていることで知られています。
ヨーロッパでアングロサクソン系かラテン系かと分ける分別法に照らせばそういうことになるのかも知らず、中国人が日本人、韓国人、モンゴル人はみな我々中国人と同じだと言っているのだと同様とすれば、あまり穏やかな物言いではないのかも知れません。

前にも書きましたが、インドのゴラクプールからネパールのルンピニに入ると人々の顔つきは少し違って見えました。
もちろん、ゴラクプールの人がみんな同じ顔をしていた訳ではないので、ぼんやりした印象での話ですが、それにしても相対で見ればネパール人はインド人と同じとはとても思えず、さらにポカラに行くとそれはいっそう顕著になりました。
ネパールは山岳少数民族の多い国だと聞いたので、民族ごとに顔つきが少しずつ変わってくるということがあるでしょうし、チベットと国境を接していてむかしから宗教上のつながりがあったので、血が混じったということもありそうです。
いずれにしても、先のボドガヤのインド人をポカラに連れてきて、全然違うように見えるがと問えば、そんなはずはないと不思議がることでしょう。

インド人よりネパール人の方が全体に実直でややシャイな人柄というのがわたしの感想で、人口がずっと少なく、国自体がいなかと言えるネパールの方が素朴であるのは当然のことです。
とはいえ、これはニューデリーはじめインド人に騙され続けたわたしの意見であって、ネパールで騙されてインドで救われたという人がいれば、まったく逆の感想になる可能性は否定しません。
また、外国人がまったく来ないようなインドの田舎とカトマンズのみを旅行しても、真逆の印象を持った可能性が高いと思います。
インドのコルカタ、ボドガヤ、ニューデリー、プシュカルとネパールのルンピニ、ポカラ、カトマンズを旅したうえでの感想と言えば、案外それなりに的を射ているのではと思わなくはないですが。

言語について分かることはあまりないのですが、コルカタ近辺とバングラデシュは共通のベンガル語が使われていて両者の間はよく通じるそうです。
しかし、インド全体で話されている共通語はヒンズー語で、ヒンズー語とベンガル語はわずかに似ている部分もあるそうですが、まったく別の言葉になります。
両者とも独自の文字を持っていて、一見するとよく似ていますが、これもまったく違っているとのことでした。
一方、ネパールでもヒンズー語が話されていて、インドとほぼ同じ文字で表記するのですが、発音はけっこう違うところがあるとのことです。
慣れている人はインドとネパールのヒンズーを使い分けられるそうですが、それがそう簡単なことではなかったのが、インド映画を原画のままネパールのテレビでそのまま流し続けたりしたためか、ネパールにはヒンズーのバイリンガルは多いそうです。
これは東京と鹿児島の人が会話をするようなもので、鹿児島の人は東京の人に対して標準語でやり取りできますが、鹿児島人同士の会話は東京人には聞き取れないというのに似てそうです。

わたしが会ったインド人はみなモディ首相を信頼していると語っていました。
就任直後に日本に行ったことや安倍首相と会談したこともみなよく知っていました。
一方、ネパールのトップはよく分かりませんが、政治についてはポカラで話をした人のほとんどが否定的でした。
その理由は、インドに支配されてしまっているから、でした。
ネパールでは政党も政治家もインドの政党や政治家と密接な関係があって、彼らの政策に左右されて国民を考えることはないというものです。
わたしがポカラに到着した日はタクシーの運転手がストライキを起こしていたそうですが、ネパールではストライキやデモがよく発生するそうです。
それを聞いて、わたしがネパールに入った翌日にルンピニ行きのバスが出なかったのもストライキが原因だったのではと思い当たりました。
ポカラのタクシーも全部がストライキしたわけではなく、市民に迷惑がかからないよう、部分的にストライキやデモを決行するのがネパール流なのだそうです。

さて、本日の作例はポカラの郊外の私立と思われる小学校の生徒を撮影したものです。
4人はとても似ていて全員が兄弟か、少なくとも両サイドの女の子は姉妹だと分かります。
その両サイドのふたりは彫が深くて、もしかしたら西洋人とのハーフではと思うくらいでしたがそうではなく、西洋風の顔立ちは多くはないもののときどき見かけました。
ネパールでは、土着型のインド人タイプ、北方の人が混血したと見られる西洋人タイプ、チベット人か中国移民の地が入った日本人に似ているタイプ、いずれにも該当しなそうな恐らく少数民族タイプ、の4タイプに大別できるのではと思いました。
そういえば、英語はインドでもネパールでもよく通じましたが、それは私立の学校で教えるものなのでしょうか、まったくしゃべれない人が多いですし、もっと困るのは何をしゃべっているのかさっぱり分からない人で、得意になってわたしに話しかけるのですが、わたしはほんどと理解できずで会話にならなくて、お前は英語ができないのかとあきれられることが2~3度ありました。
ヒンズー語に由来するのか巻き舌で話す人が多く、R音は特にひどいので、例えばAre you doctor?は、アー・ユー・ドクター?ではなく、アル・ユー・ダクタル?のように聞こえます。
毎回2度も3度も聞き返すので、相手も疲れて話しかけてこなくなるのですが、こちらから金を取ろうと思っている連中は、何度聞かれてもずっと引き下がらず、それだけで互いにだいぶ疲れてしまうのでした。
【Alpha7/Squire & Co. 14cmF3.6 F3.6】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/23 Thu

災害に屈せず

Squire & Co 14cmF3.6
わたしの旅した範囲ではネパール大地震の影響は、少なくとも視覚的にはあまり感じるところがありませんでした。
テレビニュースでは、地震で破壊されたところや避難生活を強いられているところばかり映像で流すので、ついついほとんどのエリアがそういう現状なのかと錯覚しがちです。
しかし、地震の被害がなかったところを映像で流しても意味がないので、倒壊した建物ばかり見せていかに地震が凄かったかを示そうとする報道姿勢はある意味誇張主義で正しくないのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。。
例えば、カトマンズでは市街地で推定2%の建物が倒壊していますが、都市機能はまったく損なわれておらず、不運にも倒壊したがれきをボランティアと片付けながら多くの人がこれまで通りの生活をしています、一方で近隣の農村では簡素な石積みの家、干乾し煉瓦を重ねた家など被害は甚大で、多くがビニールシートを張った仮住まいでの生活を余儀なくされており、けが人が収容しきれないこと衛生状態の悪化から彼らの救済が急がれますが、政府も全体の規模を把握しておらず、水や食料などの緊急支援物資を大目に送るよう呼びかけています、などとやれば、何となくではあれ状況が大づかみできると思われます。

わたしがネパールを訪れたときには地震からすでに3ヶ月も経っていたにも関わらず、現状を知るすべがありませんでした。
日本の旅行会社や航空会社は、もう地震から3ヶ月で安全だからどしどし旅行してくれとはまだ言えないでしょう。
まだ大きな余震の可能性があって、それによる被害が無くても交通機関がマヒして帰国が1日遅れるでもしたら、日本の場合は大きな問題になる可能性があるからです。
ましてや、旅行者本人が怪我でもしたら、お前の会社が安全と言ったじゃないかと補償問題になるので、余計なことは口頭でも言ってはいけません。
いちばんいいのはネパール政府がすべてをオープンにして、まだ絶対に安全ではないですが、観光はつつがなくできますし、大きな余震が起こる確率は我が国の気象庁予測で何%なので、これでもよければぜひ自己判断で観光に来てください、と説明することだと思います。
ネバールに行きたいけど心配と二の足を踏んでいた人たちが、それならとこぞってやってくるでしょう。

一部の報道の範囲で知るだけですが、震災後の東北を支援するという活動は、少なくとも日本国内における最大のものだったのではと思います。
地震直後はもちろん、震災から何ヶ月と時間が経過してもボランティアの活動はずっと続きましたし、東北の物産をなるべく購入したり、東北を積極的に旅行するという傾向は今でも続いています。
被災した東北の力に少しでもなれればとみな考えたからですが、これは世界の人がネパールに向ける目という意味でも同様なはずです。
東北は震災には屈していないと現地の人たちが頑張って笑顔で接することで、物産を買ってよかった、旅してよかったと思わせてくれたのが何よりよかったと思いますが、ネパールの人たちも苦しさを内に秘めつつ、笑顔で旅行者に接してもらいたいです。
旅行しようというきっかけは、現地が復興の努力をしているという情報であるし、旅行してよかったと思うのはその情報通りに現地の人が笑顔で頑張っている姿を見ることができたときだと思うからです。
現在、日本に大量に旅行者を送り出している中国ですが、ネパールに対しても例外ではなく、それに対応するためかポカラにもカトマンズのタメル地区にも10軒近い中国料理店があってその凄まじさを感じ取ったものです。
しかし、いったん危険となると見事なくらいに人がいなくなるのも中国らしいというか、一部ビジネスの中国人らしき人を見た他は、中国人旅行者はほぼ皆無でした。
危険となれば、すぐ行かなくなってしまうあたり中国らしいと言えるでしょうし、それ以上に中国が情報をシャットアウトする社会なので、なかなか地震後のネパール情報が得られずに行くことができないでいる人が多いのではないかと思います。
新聞でも、ニュースでも、ネット情報でも、すべてが官制の、つまりは中国共産党のソースからしか情報が得られないのですから、まことに気の毒な人たちだと同情しないではいられません。

中国と言えば、ポカラで食べた中国料理はなかなかいけました。
ポカラ到着後、カトマンズを経つまで、恥ずかしながらわたしは胃の調子が最悪で、見地料理、つまりはカレーを食べる気になれず、インターナショナルな料理があるカフェでスパゲティを食べたり、日本料理屋でうどんや天丼を食べたりしたのですが、一部の店のカルボナーラが美味しかったのを除けば、かなり厳しい味だと言わざるを得ませんでした。
日本に行ったこともない人が、恐らくは日本食レシピをネットから翻訳して少なくとも見た目は日本料理風に仕立てたものという程度なので、味まで追求するには無理があります。
ところが中国料理の方は、少なくともわたしが入った店は中国人がオーナーで、コルカタに着く前に昆明で食べた中国料理などよりずっと美味しかったのです。
もともと中国料理を食べるつもりはなかったのですが、店の前に置かれたメニューが写真付きでどれも本格的中国料理で、ほんとにこんなのが出てくるのか試してみようと入ったところがその通りの料理だったのですっかり感心してしまったのです。
日本の中華街の中華料理は中国人が日本人向けにアレンジして作っていますが、ネパールの方は中国人観光客向けに作っているので本格度ではずっと上を行っています。
行き当たりばったりの場合、日本料理はやめておきなさいと言いますが、中国料理はメニューの写真が美味しそうで中国人が経営と確認できれば、お勧めしたいと思います。

食べ物ついでにフルーツのことも。
今回はたまたまマンゴーの収穫時期と旅が重なったようで、バングラデシュ、インド、ネパールといたるところでフレッシュなマンゴーを食べることができました。
だいたいどこでも1キロで50~80円くらいですが、1キロと言うと大きいので3つ小ぶりなのでは4つ買うことができ、一度に食べるのに十分な量です。
マンゴー専門屋台かマンゴーも扱うフルーツ屋が至るところにあるので頼んでカットしてもらいます。
マンゴーは中心の縦長部分が硬くて食べられないので、それと並行に2ヶ所カットして3つに分けてもらいます。
左右は皮以外をペロリと食べ、中央は皮を剥いて硬い部分を避けて食べます。
それを3つ4つと食べるとけっこう満腹になるし、みずみずしさで渇きも癒される気分になります。
栄養価がいかにも高そうなマンゴーは、胃の苦しさでまともに食事ができない時の精神的な支えにもなってくれました。
ネパールの震災時に食料と水の配給が不足していると報道されていましたが、もし、マンゴーの出回っている時期であれば、それを解決する大きな手段なっていたのではないでしょうか。
【Alpha7/Squire & Co. 14cmF3.6 F3.6】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/23 Thu

超父性社会か

Squire & Co 14cmF3.6
ボドガヤにはわたしがインドで唯一見たツーリストインフォメーションがありました。
インドではツーリストインフォメーションの看板を出しているのはみな旅行代理店で、おそらくホテルを紹介してくれと依頼すれば多額なコミッションを取られ、観光地の相談をすればそこへはタクシーでないと行けないから特別手配してやるなどと言われ、ようするに情報を得ることと引き換えに多大な損失を被るのがインド式のツーリストインフォメーションだとわたしは解釈しました。
ニューデリー駅のそばで、プシュカルの滞在やゴラクプールの切符の手配をしたのが、やはり表向きツーリストインフォメーションと書かれたオフィスで、わたしは途中でおかしいと気付いたものの抵抗し切れずまんまと騙されてしまいました。

ボドガヤのインフォメーションはちょっと違っていて、しっかり職員を名乗る男性がふたりいました。
日本語のパンフレットも手渡してくれ、わたしは疑うことなく公的なツーリストインフォメーションであると信用しました。
初老の男性が、近くを案内すると言います。
外はとても暑く断ればよかったのですが、着いて行ってしまいました。
徒歩圏の寺院をあまねく案内しようと、日本のお寺が建てた大仏像から見学がスタートします。
2つ目の寺院の見学中に、このままでは熱中症になると考え、そのむね伝えてホテルに戻ろうとしましたが、老人は聞く耳持たずで平然と次の寺院へ連れて行こうとします。
このままでは、わたしもあなたも体が危ないと言ったのですが、そんなことはないと聞き入れず、お寺の中で口論になってしまいました。
それでも言うことを聞かないので、もらっていた日本語パンフレットを突き返して、もうわたしに干渉しないでくれと小走りでホテルに戻りました。
ホテルにあった1リットルの水を一息に飲み干すほどに喉が渇いていました。

老人は仏教寺院を案内しながら、自身はヒンズー教徒だったのですが、インド人は仏教をヒンズーから派生した傍流とみなしているので、ヒンズー流解釈で勝手に説明してしまうようです。
インド人やヒンズー教に、身勝手さや自分中心の発想があると感じるようになりましたが、きっかけになったのがこの老人との寺院見学でした。
以降、会う人会う人、他人のことを全然配慮しないなあという印象がより高まり、それが修正されることはありませんでした。
ボドガヤでは、日本語を話すインド人が派閥を形成するようなところがあって、日本人とみるとその利権にたかりつこうと露骨に争っているということも以前のブログに書きました。
ボドガヤに行かなければ、自分のインド感は違ったものになったのではと後悔しますが、それは後の祭りです。

インドでホテルやゲストハウスに宿泊するときはパスポートの提示とともに、宿泊台帳のような分厚く大きな帳簿に必要事項の記載を求められます。
名前や住所は分かりますが、父親の名前を書く欄があってこれにはいつもとまどいました。
なにしろ台帳なので次に記載する人は、前に記載した人の住所や電話番号、年齢、父親の名前まで個人情報がバレバレです。
どうせ確認しやしないのだし、ホテル従業員を含めてインド人に情報が渡るくらいなら適当に書いてやれと、途中からいい加減な記載をしていました。
さすがにこれまでインドからDMが来るなどの不愉快な思いはしていません。

この台帳には、もうひとつ、どの町から来たかと次にどの町へ行くかも記載しないといません。
どこから来たかを書くのは容易なことですが、わたしのようなあまり計画のない旅をしていると次の行先がなかなか書けずに困ります。
中国であれば地名はいくらでも出てきますが、インドの地名を述べてみよと言われても位置関係とともに言えるのはいくつもありません。
コルカタで記載するときはつまってしまって、どうしようと思っているときにガヤという地名を思い出して、適当にそう書いたらちょうど列車で8時間くらいの距離だったので不自然ではないと分かり、ホテルの人からハウラーという駅から行けることも教えてもらい、嘘から出た実ではないですが、実際のガヤにいくことになってしまいました。
この欄だっていい加減な記載でいいと後で気付いて、以降は知っている地名を思いつくままに書くにとどめました。

さて、作例はガヤ付近の町並みの中に見た自転車の青年です。
近くに市場がありそうだったので、今夜のメインディッシュ用にトリを一羽購入したもののようで、自転車の推進力を高めるために、こんなところに括り付けているわけではないと思われます。
中国でも東南アジアでも、トリを生きたまま買ってきて足を縛って上下逆さに運搬するのはありきたりの風景ですが、自転車に括り付けているのは初めて見ました。
このエリアではほかにも、ペットボトルを頭の上に載せたまま歩いている女性を見たり、2メートル近いハンガー掛けに服を50着くらいビシッと並べて売り歩くおじさんがいたり、被写体には事欠きませんでした。
ただ、その後急速にインドに関心を失って写真をほとんど撮らなくなります。
写真が無いと、そのときインパクトを受けて眺めたちょっとした事象がすべて記憶から消失してしまうことに気が付きました。
撮影には記録するという意味があるということを俄かに忘れてしまっていたのでした。
【Alpha7/Frilon 5cmF1.5 F1.5】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/21 Tue

ロマンスは起こらず

Squire & Co 14cmF3.6
ジュール・ベルヌの80日間世界一周で、インドは、主人公が世界一周するにあたっていちばん重要な国でした。
シーンのひとつが、まったく女っ気がなかったストーリーに囚われの身だった未亡人美女を救出するというロマンスです。
じつは、わたしもインドでのロマンスに大いに期待していました。
恋愛感情が起こるかは別として、美女が現れてちょっと親しくなるとか、そんな展開がわたしの世界一周でも起こるのではないかと。
しかし、結論を先に言えば、それはまったくの不発で、インド女性は箸にも棒にも掛からぬようなものしか見掛けませんでした。

わたしが旅した間に見たインド人の97%がヒンズー、2%がイスラム、1%がシーク教や仏教などその他宗教という感じの割合でした。
少なくとも女性ではそんなものではないかと思いますが、なぜそれが分かるかと言えば、ヒンズー女性は必ず鼻の左側に金色のピアスをしているからで、イスラム女性の象徴であるヘジャブで顔を覆う女性とたぶん仏教徒と思われるごく一部を除いて、老若女女問わずみんなかみんな、鼻にピアスをつけていました。
ピアスの穴は幼児の頃パチンと開けてしまうんだそうです。
大きくなってからだと事故が起きたり痛みが続くことがあるが、幼女のころなら1日泣けばそれで済むからだと聞きました。
そうであるならヒンズー家庭に生まれた女の子は、本人の意思が確認できるようになる前にヒンズー女性の象徴のような穴を開けられてしまうということのようです。
子どもの人権団体からクレームが来そうな話ですが、問題になったりしないのでしょうか。

わたしがインド女性は箸にも棒にもといったのはこのピアスのことではありません。
とにかく、今回もペッツバールレンズ持参でしたので、どこかでポートレイト撮影をと意気込んでいましたが、その対象になりそうな女性はほぼ皆無でした。
少なくとも、訪れたコルカタ、ボドガヤ、デリー、プシュカル、ゴラクプールでは。
町中で見かける男女比率は、子どもや学生を除くと9対1以上の差で男性が多いのも不思議です。
理由を聞く機会はありませんでしたが、女性が社会進出するのが日本よりはるかに厳しい世界だからとか、独身女性があまり人前に出てはいけないという暗黙のルールがあるのではとか゚そんなことを想像しました。

プシュカルはヒンズーの聖地で、宗教的に重要な時期が近いこともあって、訪れている女性が多数いましたが、いずれも中年以上でした。
そしてそれら女性たちは例外なく太っていますし、それはプシュカルに限らず滞在地のいずれもそうでした。
男性も肥満が圧倒的に多いですが、インドは暑いから体をあまり動かさず必然的に太るのか、あるいは肥えていることが富の象徴のように考えられていて競って太るのでしょうか。
女性はサリーを着ていてうまくすれば体形を隠せますが、横から見るとだぶだぶのウエストがよく見え、何かの折にお腹の出っ張りも目立ってしまうので、じっとしていなければ太り具合はバレバレです。
万一、美人がいたとしてもあの体形をみるとゲンナリです。
子どもや学生でも肥満はけっこう多くて、なかなかな女子高校生くらいの子なのにもう腹が出ちゃったりで、この子に麗しき青春時代というものが存在するのだろうかと余計な心配までしてしまいました。

本来行きたかった北インドのシムラーからカシミール地方には、色白で彫りの深い美人が多いとそうですし、以前、何かの本でそのあたりの女性こそ世界一の美人の住むエリアだと聞いたことがあります。
もし、ニューデリーから入っていれば間違いなくそのあたりを訪れて実地調査の苦を厭わなかったでしょうが、コルカタ、ボドガヤ、ニューデリーと散々インド人の嫌な部分のみを見せつけられて疲労困憊になった神経には、その勤めを果たす使命感は残されていませんでした。
仮に美女がいたとしても、性格までもが北インドでは一気に変わるということはないでしょうから、がっかりさせられる前に断念しておいて正解だったと慰めを言うことにしておきます。

さて、本日の作例ですが、プシュカルで見かけた自称ジプシーの女性二人組です。
散歩中、突然声を掛けられて写真を撮れと、こんなポーズをしました。
かつてハンガリーや北イタリアに多くいたアジア系移民は、エジプト人ではとの誤解からエジプトがなまったジプシーの名で呼ばれましたが、のちにインド系であることはよく知られ、彼らが自称するロマと今では呼ばれています。
彼女たちがジプシーだと名乗る意味はよく分かりません。
いきなり手を押さえつけられ、幸せになれるという模様をハーブ素材の液体のようなもので手のひらいっぱいに描かれてしまいました。
そして終わるや否や、金をよこせ、です。
当然、拒否して揉めますが、こちらが折れないとみると、分かったもういいさっきの写真をデリートしてと言われ、オレの手のひらの絵をデリートしたら写真もデリートすると返したら、わかったそのままでいいと立ち去ってしまいました。
手のひらの絵は、困ったことに、その後1週間ほど消えることはありませんでした。
【Alpha7/Frilon 5cmF1.5 F1.5】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/20 Mon

ドバイの熱い朝

Squire & Co 14cmF3.6
カトマンズからドバイへの便は夜の11時出発予定ですが、その時間をまわっても搭乗ゲートすらどこか表示されていませんでした。
悪天候のため到着が遅れていますとのアナウンスがありましたが、同時間帯のフライトはおおむね時間通り飛び立ってしまったので、言い訳臭い気がします。
昼間のニュースで読んだ、ちょうど1年前にウクライナの親ロシア派軍によって撃墜されたとされるマレーシア航空も、大量の中国人を積み込んで定刻通り飛んでいってしまいました。
結局2時間遅れの出発になりましたが、このフライ・ドバイという会社はお詫びのアナウンスすらありません。
フライ・ディレイに改名すべきと手紙でも書いてやりたいです。

到着予定は夜中の1時半でしたが、2時間遅れで3時半になってしまいました。
さらに入国審査で長蛇の列の上、わたしの順番の時、係員に顔が違うと不審がられIDを出すよう明示されたので免許証を示すと、わたしの顔、5月に作り直したばかりのパスポートの顔写真、数年前撮影の免許の顔写真を見比べて、不審な顔をしつつも入国スタンプをポンと押して、さあ行け行けと命令調に指示されました。
ここのところあまり見なくなった高圧的な入国審査員にイライラしつつも、さすがにイミグレーションの列が長かっただけに荷物はすでにターンテーブルを回っていて、すぐに両替に向かうことができます。
ATMで2000円程度の両替をするつもりでしたが、さすがUAEの銀行はそんな低額からの扱いはしてくれず、最低15000円からになっていて断念せざるを得ません。
両替商があったので、どこかの国のビザ用にと用意していた米ドルを20ドル両替しました。
ホテル近くまで行く24時間運行の100円程度のバスがあるはずでしたが、誰に聞いてもそんなのはないと言われるばかりで、700円ほどでプリペイドカードとバス代を支払って別のバスに乗りました。

バスはだいぶ高い分とんでもなく親切で、乗車した人全員の行先をひとりひとり聞いてその近くで降ろしてくれます。
わたしの予約したホテルはマイナーなため運転手は知らなかったのですが、何々通りのコマーシャルバンク裏側などと書かれていて、たぶんこの辺だろうと降ろされた通りに、CBIと大きく書かれた建物があって、これがそうではと裏に回るとまさにホテルがあったので、今回のスピーディなホテル発見には自分でも驚いたくらいです。
しかし、到着はすでにうっすら明るくなり始めた朝の5時です。
もしかしたらチェックインは拒否されるのではと心配しましたが、こういうことになれていそうなレセプションはささっと処理して、遅い到着なのでチェックアウトは14時で構わないと柔軟な対応ぶりでした。
ホテル予約サイトで4番目に安いホテルでしたが、それでも5000円もして、個人的には予算をだいぶオーバーしています。
しかし、フィードバックの高評価どおりの価格以上の対応と、新宿でこのクラスのホテルなら2万円くらいしてしまうんだろうなあという広さや設備に納得しているうちに、昼まで熟睡しました。

チェックアウトした1時からフライトの20時半まで時間がありますが、残念ながらホテルに地図はなくあてのない散策になりました。
気温は40度くらいでしょうか、時折風が吹きますがそれがまるでドライヤーの熱風のように感じられます。
最初の5分間のみこの程度の気候ならどうにかなると思っていたのですが、やはりダメで、全身から汗が噴き出したと思うとそれは止まらず、ペットボトルの水はすぐに底をついてスーパーに入らないといけなくなります。
水を飲めば渇きからは一時的に解放されますが、汗が噴き出すのでまた補給と繰り返すことになり、サウナに入っているのといっしょなので体には好さそうにも、熱中症のリスクから体に悪そうにも感じられて、考えれば考えるほど頭がくらくらしそうです。
わたしだけ暑がっているのかといえばそんなことはなさそうで、道行く人の背中は誰もが汗でぐっしょりになっていました。
つい昨日までラマダンが行われていたはずですが、こんな暑さの中で何か作業をして水も飲めないとなったら、それこそ死を覚悟しないといけないのではと深刻に考えたりもします。

歩く方向の勘が悪かっただけかも知れませんが、予想した通り歩けど歩けど関心を惹くような建物も人の溜まりも何も見つかりません。
予想できていたので散策なんかしなければよかったのですが、この暑さの中を数時間歩いたことが自分としてはアラブ体験の入門編としてちょうどよかったと納得することができます。
ドバイと言えば、世界一の高層ホテルとか海に突き出してモミの木が枝をはるように建物を配置したホテルとか有名なものがありますが、ホテルマニアでないわたしには関心が湧きません。
そういうのは日本ではハコモノと呼んで批判されるんだよと言いたいところですが、UAE人からあなたの国のオリンピック会場は何なのと反論されるでしょうから何も言えませんが。

4時間近く歩いて駅の表示を見つけてここから地下鉄で折り返そうかと思ったところ、何ともうまい具合にヘリテージハウスという1850年に建設されて今は伝統的なUAEの暮らしを再現する博物館を見つけました。
新築のように改装されていたために見落としていましたが、たまたま職員が出てきたところで何だろうと見たら目が合い、ミュージアムを探しているのかと聞かれ反射的にイエスと答えて中に招じられました。
この博物館の素晴らしいのは部屋ごとに冷房ががんがん利いていることで、そうでなければ素通りしてしまいそうな説明表示をゆっくり読むことができます。
中庭では砂場で遊ぶ子どもの様子が再現されていて、このあたりの土地はもともとは砂漠で、そのうえにドバイの町が構築されていったことを思い出させてくれました。
小一時間見学していましたが他に来館者はなく、作例になるような写真は撮れないでいましたが、建物を出るとその脇がなかなかいい具合に曲がった路地になっていて、ぴったりのタイミングで男性が歩いてきたのでどうにかブログ用の写真撮影も1発で終わらせることができ、その足で地下鉄に乗って荷物を預けてあるホテルに戻りました。
テレビの釣り番組で、全然釣れないのに終了間際の最後の一投で狙いの魚がかかって、がんばった甲斐がありましたと胡散臭く終わることがしばしばありますが、わたしのドバイはそれとよく似ていました。
【Alpha7/Squire & Co. 14cmF3.6 F3.6】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/18 Sat

吊り橋怖い

Squire & Co 14cmF3.6
本日、夜のフライトでドバイに行くつもりですが、そのチケットが購入できません。
満席で予約が入らないという理由ではなく、いちばん安い24000円のチケットのオンライン決済がうまくいかず、タイムアウトしてしまうのです。
2日間何度試してもダメだったので諦めざるを得ず、近くの代理店で購入することにしました。
代理店は星の数ほどあって、ボッてくる店もあるので、1軒で決めずに何軒か比較する必要があります。
最初の5軒は同じような値段で、そこいらが相場かとあきらめましたが、ここが最後と入った店は他より4000円も安かったので購入しました。
たかが、4000円と思う向きもあるでしょうが、この地でのホテル2泊分、節約する人だったら食事代5日分といえば歩いた報酬としては十分と感じます。
しかし、航空券代は30000万円になってしまったので、オンライン決済の不調のためにこれでも4000円損しています。

ホテルに戻ってチェックアウトを済まし、夜のフライトの時間までどうしたらよいものかと相談すると、地図を手渡してくれたうえでいくつかのスポットにマークを入れてくれました。
無目的に歩いて何も見なくてもいいのですが、どこの土産物屋でもぶら下がっているTシャツなどに描かれていたブッダの眼がカトマンズの象徴だと思いだし、どこかの寺院に行けば見られるかと思い聞いたのですが、ホテルから2~3キロほどとのことで歩いて行ってみることにしました。
もちろん正式な名前のある寺院ですが、いま思い出せないので別称のモンキー・テンプルと呼ぶことにします。
このホテルのマネージャーはヒンズー教なので別のヒンズー寺院に行くことを勧められましたが、ホテルから仏教寺院とは反対方向にあって歩くのはたいへんそうです。
空港までのタクシーをホテルに依頼して支払いもしてしまったので、あとは昼食代と夕食代分くらいしか残っておらず、移動にタクシーが使えません。
もうひとつホテルから近いダルバール広場も行くべきと勧められたので、ここを通って仏教寺院で1日過ごすことにしました。

しかし、ダルバール広場に着くと職員に呼び止められて入場料を払うように言われました。
広場なのに入場料が必要なのかとしぶしぶ財布を出すと、750ルピーと言われて驚きのあまり言葉を失います。
ネパールのかつての王宮建築やら何やら、この国を代表するものが揃っているとの説明ですが、物価を考えると1000円というのはだいぶ高すぎるような気がします。
地震当初のニュースで、歴史ある建物が完全に倒壊してしまいましたと報じていたのがここだったようで、入場料はその修復に充てられるのかも知れませんが、それにしてもここで支払ってしまうとほぼ食事抜きになってしまいます。
旅行者には厳しい価格設定ですね、本日、帰国なので現金の持ち合わせがないので見学はあきらめますと言ってUターンしました。
職員も申し訳なさげでした。

地図を眺めながらモンキー・テンプルを目指すと、町中だというのに小さな川に吊り橋がかかっています。
ルンピニ~ポカラ、ポカラ~カトマンズとバスの中で何度か峡谷の中の吊り橋があって、あの高さと長さではわたしには渡る勇気は出ないだろうなとおぼろげに考えましたが、ここなら問題なく渡ることができます。
しかし、下の川を見ると真っ黒に汚れていて、落ちた場合の恐怖は峡谷の橋に勝るとも劣らずです。
絶妙のタイミングで子どもが手をつないでやって来たので、本日の作例とさせていただきました。
橋から20分ほど歩いてようやくモンキー・テンプルに到着しましたが、なるほど別称の由来でしょうサルがあちこち駆け回っています。
しかし、俺はヒンズー教だからブッダなんて知ったこっちゃないよと言う態度の現地人たちが、大きな仏像の膝や掌の上に無神経に腰掛けていました。
山頂のストゥーパに描かれたブッダの眼が悲しげに見下ろしているように見えます。
マホメットの風刺画を描かれて怒るイスラム教徒の気持ちが少しだけわかったような気がしました。

またタメルエリアに戻ると昨日、楽器演奏を披露してくれた男性にまた出合いました。
あと数日で田舎へ戻らなければいけないので朝からずっと外国人に声を掛けているとのこと。
たまたま中国語で話している中年男性がとおりかかったので、助けにならないかと中国語で楽器や学校のことなど事情説明しましたが、興味なさげに立ち去っていきました。
少し中国語ができるので説明してみたんだけど相手にしてもらえなかったと報告すると、中国人は自分のことしか考えない人たち、日本人や西洋人でないと理解してもらえないですという、返事でした。
少なくとも彼は中国人をよく思っていないのは態度からも理解できましたが、過去に嫌な思いをしたのか、ネパール人自体がそういう印象を持っているだけなのか、少し気になりました。
タメルには日本料理、韓国料理、チベット料理、イタリア料理などの各国レストランがあって、町に溶け込むようなたたずまいですが、中国料理店のみ真っ赤な巨大看板を掲げた店が目立っていてあきらかに浮いています。
こういうところからもネパール人の中国に対する反感が広がっているような気がしました。

夕方遅くなってなおも歩いていると、またダルバール広場前に出てしまいました。
チケットオフィスにはすでに人影がありません。
それを狙って来たせこいヤツのようで気まずいということもあって、写真を撮ったりはせずに建物だけ見て通り過ぎました。
絶望的なくらいすごいがれきの山と被害を免れた建物でも倒壊の可能性があるものには近寄れないようロープで規制しているのが目につきます。
がれきというと、福島県の津波によるがれきを自治体で分担して受け入れるという時に、拒否した市があったりしたことを思いますが、そういう不愉快なことを除くと、地震が日本国民の気持ちをひとつにしたというか、逆境によって向かうべき方向性を示してくれたようなところがあったような気がします。
ネパールではどうなのでしょうか。
同じようなことは言えるだろうと期待しますし、地震被害国同士で日本に親しみを感じたネパール人も多くいたのではと思っています。
しかし、インドやネパールで感じた彼らの自分だけよければという考え方が、復興の障害になっていないか心配です。
楽器演奏の男性が、家は倒れてしまったが今度は地震でも大丈夫な家を建て直したいと言っていたように、彼らの生活が地震以前よりよくなってくれることを願わずにいられません。
【Alpha7/Squire & Co. 14cmF3.6 F3.6】
thema:ペッツバール genre:写真
Squire & Co. 14cmF3.6 | trackback(0) | comment(0) | 2015/07/17 Fri
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