クラシックとクラシックカーと

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
今から20年近くも前の冬、わたしはベルリンを旅しました。
その前にポルトガルとスペインを旅したときに、宿泊したペンションの隣の部屋がドイツ人の母子で、日本人と初めて会話したということで日本にたいへん興味を示してくれ、食事をご馳走してくれたりもしました。
その後、半年に1度くらい手紙とか絵葉書を交換しましたが、遊びに来てくださいと書いてあるのが常だったものの、ロマネスク建築にのめり込んでいたわたしはベルリンや東ドイツに関心が持てなかったのですが、1週間の冬休みにロンドン経由でベルリンを訪れてみることにしたのです。
最悪なことに、いちばんの楽しみだった女子大生の娘はスコットランドの英語学習合宿に行ってしまい不在で、そのため、彼女の下宿先を宿に使ってくれと提供されたのは、宿泊の高いベルリンで災い転じて福ではありました。
ドイツに限らずヨーロッパでは、子どもが大学生になると独立して家を出るのだということを知ることもできました。
当日はお母さんと食事してから、渡された地下鉄の最寄り駅名と住所を頼りに駅からアパートを探しましたが、地図が無いとどちら方面かも分かりません。
大学生風の青年に尋ねてみると、あっちだよと言ってくれるかと思えば、いっしょに探そうと30分近くかけて雪空の夜、アパートを見つけてくれました。
お茶くらいご馳走しなくてはと思いましたが、彼はこんなことは当たり前だという笑顔で去っていきました。
このときのインパクトが強くて、わたしも道を尋ねられたらなるべくそこまで連れて行ってあげるようにしています。

話が全然ずれてしまいました。
このときわたしがベルリンでいちばん興味を持ったのは、チェックポイント・チャーリーでの東西ベルリンのイミグレーションが残っていたことではなく、博物館に売られていた落書き入りベルリンの壁のかけらでもなく、トラバントという車でした。
トラバントは1958年から40年以上にもわたって東ドイツで製造されていた乗用車です。
この間、何度かモデルチェンジしていますが、基本的な外観や、2気筒2ストロークエンジン、プラスチックボディという基本的な部分は変更されておらず、1950年代に最新鋭の車として発売された自動車が半世紀後もほぼそのままの姿で製造され続けて、生きた化石とも呼べる共産圏の名車でした。
西ドイツでは、ベンツ、BMW、フォルクスワーゲン、オペル、アウディといった世界の先端を行くメーカーが自動車を製造していた中で、東西ドイツが統合されるや突然時代錯誤なトラバントがそれらと並走するようになり、そのギャップの楽しさが受けて、西ドイツ出身者でトラバントを愛好する人が急増したと言われています。

わたしがベルリンを旅したときは東西の壁が崩壊して10年近く経っていたはずですが、まだまだトラバントはあちこちで見ることができました。
ワーゲンビートルやシトロエン2VCと同様に準クラシックカーのような存在ですが、トラバントにはそのような洗練が無く、共産主義を全面に出したような無骨さがあって、かえってそんなところが暗い過去へのオマージュとしての支持を得ていたのかも知れません。
しかし、相当に古いものですし、排気ガスの規制等をクリアしているとも思えず、すでにほとんどが廃車の憂き目にあっていると考えていました。
今回の旅で足を延ばしてベルリンでトラバントに再会できないかと考えていたのですが、トルコからブルガリアに入ってコプリシュシティツァという田舎町に行った時に古民家の脇にトラバントがあるのを見つけてしまいました。
しかもレストアしていないボロのままにも関わらず、しっかり走行できる姿で。
喜び勇んで写真を撮っていると、そのオーナーが現れてエンジンやコクピットを見せてくれたり、実際にエンジンをかけて懐かしい音を聞かせてくれました。
ブルガリアの田舎ならまだまだ見られるのかよく分かりませんが、今回の旅で見かけたトラバントはこの1台だけでした。

話は変わって、トラバントを見たコプリシュシティツァでの夕刻のことになります。
古民家の庭の方からヴァイオリンの響きが聞こえてきました。
シューマンのトロイメライを情感たっぷりに弾いています。
何かと思い行ってみると、非常に幸運なことにこのあとヴァイオリンとピアノのリサイタルがあって、そのリハーサルを公開しているのだとのこと。
伴奏はアップライトピアノでマイクを通していましたが、両演奏者とも技術はかなり高いように見えます。
リハーサルが終了したので、周囲の人に聞くとリサイタルは30分後に始まり入場料不要とのこと。
しばらく近所を散策して戻ってみるとまばらだった急ごしらえの座席はほとんど埋まっていて、古民家の庭のコンサートにも関わらず、ざっと7~80人が腰掛けて演奏が始まるのを待っていました。
座れないのを覚悟しましたが前から3列目にひとり分のスペースを見つけて図々しく割り込みます。

演奏はとてもすばらしい、特に技術的にかなり高いことが素人のわたしにも分かるものでした。
というのは先ほどのトロイメライを除くと、小曲ばかりとはいえ、クライスラーの編曲したものを中心にブルガリアのヴァイオリニストが作曲したものなどいずれも難曲ばかりで、それらを余裕をもって弾きこなしていました。
最初は、この町出身のアマチュア愛好家かオーケストラで仕事している人の凱旋リサイタルのようなものを想像していたのですが、そういうレベルではなさそうです。
重音で倍音を慣らしたり、右手で弓を弾きながら左手ではピッツィカートしたり、わたしの耳や目では追いきれない名人芸の連続なのに、旋律を弾くととても深い音を出して聴衆を魅了します。
最後の方の曲では熱が入りすぎたのか、突然、弦が切れてしまいました。
演奏をストップさせて、弦が切れたことを示し、パガニーニであればこのまま弾き続けたのですが、わたしの技術では止めるしかありませんとブルガリア語と英語で冗談を言って場を和ませながら、庭の木の株にどんと座って弦を張り替えていました。
そんな姿も超一流に見えます。

愉しい夜になりました。
例えコプリシュシティツァがつまらない町であっても、このコンサートを聴けただけでわたしは大満足だったでしょう。
そのうえ町は美しく、食事は美味しく、翌日には民族音楽の合唱があり、ついでにトラバントも目撃できたので何も言うことはありません。
リサイタルが終わって古民家を出ると、来た時は気付かなかったのですが、そのリサイタルのポスターが貼ってありました。
ブルガリア語なので日時以外はまったく読めません。
わたしの前で熱心に聴いていた高校生のグループが来たので、演奏者の名前はなんと読むのか聞いてみました。
教えてもらった名前は失念してしまいましたが、プロフェッサーだと教えてくれました。
齢70くらい、恐らくはソフィアの音大の教授ということでしょうから、かつてソリストとして活躍して一線をしりぞいてから教授になったか、もともと大学で指導者として幾多のヴァイオリニストを育成した人なのか。
そんな人が無料で古民家のリサイタルを開くというブルガリアがますますすばらしく感じられます。
作例は、弦を張り替えるプロフェッサーの様子です。
演奏を中断されて不機嫌とか、弦の張り替えに焦るとかいう素振りは一切なく、音楽を奏でていた喜びの余韻の中にいるような表情がとても好いと思いました。
トラバントの写真にするか悩みましたが、またしばらく東欧を廻るのでこの車を見る機会はあるかも知れず、アクシデントを笑顔で乗り切る姿に自分の旅を重ねて、こちらの作例を採ることにしました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
スポンサーサイト
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/24 Mon

やり済ましとは何のこと

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
トルコ語はまったくできませんし、せっかく覚えた、こんにちは、ありがとうを何というのかも今や忘れてしまいました(さよならだけは、グレグレと覚えやすいので忘れてませんが)。
同じイスラム圏でもUAEやヨルダン、パレスティナではアラビア文字のアラビア語が
公用語だったのに対し、トルコではアルファベットを用いたトルコ語です。
アルファベットと言っても、ドイツ語のウムラウトやフランスのアクサンシルコンフレックスのようなマークが多用されていて、そのままローマ字読みでは通じない場合も時にあるようですが、案外と普通に読んで分かってもらえるようです。
作例は、タルソスという町で撮影したものですが、このタルソスはTarsusという綴りで、グーグルマップではタルススとなっていましたので、ローマ字読みのパターンです。
わたしは調べもせずに現地の人の言うのを真似してタルソスと表記しましたが、たぶん多くの日本人にはタルッソスというように聞こえると思います。

タルススと聞くとわたしは樽煤という古いワイン醸造所の倉庫を連想しますが、トルコのわずか数日間で日本語を連想させる地名とか張り紙をところどころで見たので、あまり意味もなく紹介したいと思います。
タルソスから近く遺跡を見に行ったのがSilifkeという町で、これはそのままシリフケで好いようですが、「尻拭け!」とはすごい名前の町ですね。
タルソスで知り合った人たちにシリフケは日本語で、Clean up my ass!という意味だとそのポーズをとったら、当たり前ですが大うけで、彼らのレストランでは、わたしが考案した尻を拭けというポーズが流行して、撮影し合ってシリフケ在住の友人にこれがお前の住んでいる町の名の日本語の意味だとフェイスブックに投稿していました。

彼らのレストランの向かいのレストランには立派なプレートが掲げられていて、トルコのミシュランみたいなグルメ本で表彰されたものかなと思わせました。
読めないトルコ語を読んでみると、Yarismasiなんとかと書かれていました。
これを何と読むのかは分かりませんが、まあ、ヤリスマシで合っているでしょう。
「やり済まし」という言葉にトルコで流行している新手のオレオレ詐欺を連想しました。
やり済まし詐欺です。
孫から電話があって、大切な会社の金を電車の網棚に忘れてしまったのでばあちゃん少しでいいから立て替えてくれと言われ、指定した場所に行くと孫の同僚を名乗る男がいて、ここではまずいのでレストランで食事をしながら金を渡すことになります。
男は高価なものばかり頼んで支払いは俺がするからと言ってレジに向かったままいつまで経っても戻って来ません。
おばあさんはお金ばかりでなく、食事の支払いまで肩代わりさせられるというトルコ中を震撼させている詐欺です。

わたしがイスタンブールに到着したとき、イスタンブールの滞在は後回しにしよう、まずは適当に東に向かって徐々にイスタンブール方向を目指そうと考えたのですが、空港でいくつかある行先を航空券料金と比較しながら決めたのがアダナという町です。
アダナはトルコの中央南部にありますが、地図を見るとISISが自国の首都だと主張するシリアのアレッポまで200キロも離れていません。
こんなところに行って大丈夫なんだろうか、拉致されたジャーナリストたちは同じルートでシリア入りを目指して、アダナ空港で変なヤツに声掛けられて騙され軟禁されたのではと心配になりました。
果たして空港で町への行き方が分からず戸惑っていると、男から声を掛けられました。
彼はメルシンという町まで行くとバスに乗ったのに付いて行ってしまいましたが、メルシンこそシリアとの国境の町では。
しかし、わたしの心配をよそに彼は居眠りしてしまい、恐怖の町、メルシンに到着、申し合わせていた彼の友だちがふたり車で待っていて、近くに安いホテルがあるので連れて行くと言います。
非常に危険な展開でしたが、彼らの言いなりになって車に乗り込むとホテルがありましたが素通りし、ますますやばくなってきます。
しかし、すぐ先の小さなホテルの前に車を停めて、さっきのホテルは高そうだったろうと言って笑っていました。
いい奴らだったのです。
メルシンはシリアとは逆方向で、先日も書きましたが、このあとアダナでテロがあったので、この移動は大正解でした。
彼の名はマークというので、アダナで知り合った彼にドイツ・マルクとあだ名を付けました。

最後は、シブリヒサルでのことです。
散策していると駐車してある車のリアガラスの上部に”NECOBABA”と書かれたステッカーが貼られていました。
日本人の誰もがネコババしてきた車だと思うでしょう。
これは写真に撮って今日の作例にしないとと思いました。
滞在した他の町でもそうでしたが、野良ネコがたくさんいるので、そのネコと人間をうまく配置した演出的写真を狙いました。
小さな町のこと、人間がなかなか通りませんがネコはちらほら見かけるので、まずは捕まえて確保しておき人が通ったタイミングで放って一気に撮影しようと考えました。
しかし、ここの野良はみんな人を恐れて逃げてしまいます。
わたしなりに必死に格闘しましたが、捕獲は不可能と諦めざるを得ません。
それよりも人間です。20分ほど待ちましたが、ついに誰一人ネコババの車の近くを通るものは現れませんでした。

最後に滞在したサフランボルでも日本語のようなトルコ語探しをしようと考えていたのですが、前に書きました通り中国人と行動することになってしまい、この地では成果を得られていません。
したがってこの企画はここで終了とさせていただきます。
そういえば、以前中国語を習っていた時に教えてもらった中国語をひとつご教示申しあげることにいたします。
自動車のBMWは確かバイエルン自動車会社みたいな意味の名称の略語だったと思いますが、経済が発展する前の中国ではこの車を持つことがたいへんなステータスでした。
そのためお金持ちがどこか路上駐車しようものならみんな寄って来てべたべたと触りたがります。
いつも車体に指紋を付けられて怒った車が叫びました。
「別摸我!(Bie Mo Wo.オレに触るなの意味)」。
何年か前まで、BMWはこの別摸我の略だと本当に思っていた中国人は意外に多かったと聞きました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/22 Sat

非パレスティナな町

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ベツレヘムは聖書でもなじみの町ですが、キリストが生まれたキリスト教の聖地です。
しかし、ベツレヘムはパレスティナ領内にあって、キリストゆかりの生誕教会の向かいは大きなモスクが建っています。
お昼の礼拝を見る機会がありましたが、近隣のイスラム教徒が大集結して何層もの列になり、額を地面につけて祈る姿は世界中から集まるキリスト教徒に対抗するかのような大迫力でした。
彼らが話してくれたところでは、キリストはイスラム教でも預言者としての位置づけだそうで、マホメッドが現れるまでの重要な存在ではあるらしいのです。
ユダヤ教での位置づけを確認することはできませんでしたが、キリスト自身がユダヤ人であったことを考えれば、同様の存在であるかも知れません。
ベツレヘムには、多くのキリスト信者がいてキリストにちなんだ行事がしばしば行われ、クリスマスで最大の盛り上がりを見せると案内で読みましたが、その信者がキリスト教徒かイスラム教徒かは分かりませんでした。

わたしが滞在したときの祭りは宗教色の特に薄いものだったという印象があります。
例えば参加者がキリスト教徒であれば、十字架のネックレスなどをしているのを見てもよさそうなものなのに、それなりに注視していたわたしにも確認できませんでした。
そして、メイン会場近くでは近くの醸造所で作られたビールの屋台が出展され、多くの人の手には生ビールのグラスが握られていました。
男性だとその服装から宗教を言い当てることは難しいですが、ステージで歌っていたこの女性たちの少なくとも中央の女性はイスラム教徒であることは分かるものの、こういう女性は会場ではそれほど多く見かけませんでした。
ベツレヘムはパレスティナにあってかなり特殊な町なのかなあと思った次第です。

ヘブロンではある男性から、以前インターネット上で読んだことがある話題が語られました。
9.11においてワールドトレードセンタービルがハイジャックされた旅客機によって襲撃された当日、勤務していたはずの4000人のユダヤ人が休暇をとっていたという事実についてです。
こんな説が本当か確かめるすべありませんが、多く言われる当時の米政権による陰謀説やユダヤ金融業界による陰謀説ではなく、イスラム社会を貶めるための陰謀説だというのが、彼らの信ずる考え方だとのことでした。
日本のマスコミにも陰謀は飛び火しているなど、いろいろな話をネット上で確認できるので興味のある方はご自身で確認ください。

わたしはこの祭りでたまたま声を掛けられて、パレスティナ・マラソンの公式Tシャツを購入しました。
もともと何もパレスティナで買い物をしていなかったので、Tシャツくらい買おうと思っていたのですが、エルサレムなどで見ると1000円以上してタイやネパールの倍以上だったので、買うのをためらっていました。
マラソンTシャツも値段は同じくらいでしたが、パレスティナの支援にいかがですかと誘われたことと、普通のTシャツと違いポリエステルの即乾燥素材が使われていたので、洗濯後すぐに乾くので旅にちょうど良いと考えて手に入れました。
実際、午後に洗濯するとその夜までに乾いていたので大いに助けられて何度か着用しました。
すると何度かそれは何のシャツですかとか、マラソンするのですかなどと声をかけられ、トルコやブルガリアでパレスティナについて説明するのに役立ちました。

トルコのサフランボルでは親しくなった中国人からシャツのことを聞かれました。
パレスティナは強国イスラエルからの独立志向が強いという点で、中国とチベット・新疆との関係に似ているので中国人がパレスティナのことを知らない可能性があります。
それを念頭に説明すると、パレスティナという場所のことや歴史的に重要な地であることは知っていました。
しかし、イスラエルとの関係は良くないということは知っていても、近代史的な背景は知らないようです。
それが彼女の個人的な知識の問題なのか政府による隠ぺいなのかは分かりかねます。
ところが、意外な事実ですが、パレスティナが国連に加盟しようとしたときに反対した常任理事国は、同様のケースで台湾やチベット・新疆の独立を恐れる中国ではなく、イスラエルと協調するアメリカだけだったとインターネットの情報で読みました。
このことは中国国内で報道されなかったでしょうが、中国が国連と国内で主張を違えていたのか個人的には興味深いところです。

パレスティナを国として認め、国連にオブザーバー参加できるようにするかの決議では、米国、イスラエルの反対にも関わらず日本は賛成にまわりました。
ジェリコーの町でJICAが活躍したように、日本はパレスティナに対してたいへん肩入れしているところがあるようです。
ジェリコーのツーリストインフォメーションの職員はJICAに敬意を示していましたが、恐らく他の人はJICAを知らないでしょうし、パレスティナの国民全体ではさらに日本の同国に対する活動なんて知らされていないでしょう。
歩いていても中国人かと言われるばかりでしたから。
日本政府やJICAにとっては友好的に接したり、活動して成果を残せたという事実があれば足りるのかも知れないですが、税金を投じたんだということを鑑みれば、もっとアピールしてその国民が広く知るような手立ても講じてもらいたいと思います。
大学生のボランティアがパレスティナ難民のために奮闘していること、日本国民の多くがパレスティナの現状を憂い彼らに同情的であること、旅行者だってガザの友人に会うために全力を尽くしたこと等々パレスティナ人に伝われば、少しは彼らの心に響くこともあるでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/21 Fri

我々はなんて似てるんだ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
パレスティナが領土としているのは、ヨルダン川西岸地区とガザ地区の2ヶ所です。
ガザは東側が海岸に面し、北と東をイスラエルに、南をエジプトに接した長方形に近い形状の土地です。
何年か前までは、エジプトとの国境が生きていてここから出入りできたそうですが、今では閉鎖され、イスラエルとのボーダーを越えなければ入境することができません。
一方、西岸地区はヨルダンと接しているので、東側からは割合と自由に行き来できると思われますが、この国境を管理しているのはイスラエルなので少々ややこしいことになってきます。
わたしはパレスティナの最初の町のジェリコーに着いてもしばらくピンと来ていなかったのですが、地図上ではパレスティナに見えるヨルダンとの国境はイスラエルのものでいったん同国に入国し、次に向かう町が西岸地区であればパレスティナの入境が行われるということのようです。
パレスティナではパスポートのチェックはするもののスタンプを押さないので、次にイスラエルに行ってもパレスティナの出国審査は無く、イスラエルの入国審査が再びあることもありません。

わたしはヨルダン川西岸地域をその名称から細長い狭いエリアだと誤解してきましたが、旅してみるととても広いことが実感されました。
地図で見てもイスラエルの3分の1しかありませんが、世界の面積ランキングでは244ヶ国中、173位と意外に善戦しています。
面積が狭いのは多くが島国ですが、少なくともバーレーン、ルクセンブルク、シンガポールよりは広いので、国家になるだけの案件は備わっていると言えるでしょう。
パレスティナは国連に承認さていますが、現時点では投票権を持たないオブザーバーとして参加しています。
昨年、国民投票で話題になったスコットランドや独立志向の強いカタルーニャ、バスクなどはまだ国連に認められていないので、パレスティナが今後、世界でいちばん新しい国になる最有力候補です。

パレスティナとイスラエルはくっきり分かれていますが、両者が混在する町というのもあることは滞在して分かりました。
ひとつは両国がそれぞれ自国の首都だと主張するエルサレムで、ここも全体にはイスラエルが実効支配しているようでしたが、城壁内の狭いエリアは4分割されて、イスラエル、パレスティナ、アルメニア、キリスト教の各クォーターと呼称されています。
もうひとつヘブロンという町は2割ほどのイスラエル人地区があるパレスティナ側の町ですが、パレスティナ人テロリストによってイスラエルの商店が襲撃され犠牲者が出たため、その周辺に居住することが禁じられ、ゴーストタウンとあだ名されていました。
それを名目に境界線付近には警官と軍による監視が続いていましたが、観光客が出入りできるくらいなので、特に緊張しているという訳ではありませんでした。
最後にベツレヘムという町も、パレスティナ側にありますが、イスラエルとの境界に接しているので、パレスティナ国内の交通とイスラエルへの移動の両方ができる便利な町でした。
戦闘状態になるとガザ地区のみとは言え爆弾が投下されるような両国の関係だというのに、このように両者が接している町があることが、わたしには不思議でした。

パレスティナの町では数回ですが、武器の写真が入ったポスターを見ました。
アラブ語の文字が読めないので推測ですが、武器をとって祖国のために戦おうという、勧誘ポスターのように思われます。
PLOやハマスのような組織が、実力行使でイスラエルから独立を勝ち取ろうとしているのでしょうか。
分かりにくい作例で恐縮ですが、トンネルの向こう側に吊るされたポスターには軍服を着た若者と機関銃の写真が掲載されていて、アラビア文字で何事か書かれています。
場所は先述したヘブロンで、イスラエルによって監視されているような状況なので、ポスターが訴える力は強いのかも知れません。
トンネルの中を歩く人にはまったく関係ないことですが、この中には関係者がいるのでは思えてくるのがこの土地を歩いた人間としての実感です。

ベツレヘムではお祭りをやっていて、パレスティナ関連のボランティアをしている学生たちに出合いました。
ひとりは、当地のパレスティナ難民キャンプで子どもたちの心のケアのための仕事をしていましたが、日本に帰るとパレスティナ人とイスラエル人の学生を日本に招待して、両者が理解しあえるよう共同生活するような活動をしていると言っていました。
両国民は背中合わせに暮らしているとはい言え、恐らく互いに理解し合おうとするような機会はないでしょうから、これはとても有意義な取り組みに思えました。
あるパレスティナ人参加者の感想として、われわれとイスラエル人の性格はまったく違っていると思っていたが、今回、日本人とも生活してみて、日本人と比べればわれわれとイスラエル人は何てよく似ているんだろうと感じた、というものがありました。
宗教こそ違えど、同じ環境で暮らして来た人たちなので性格が違う方がおかしいということを裏付けているように思えます。

以前、イスラム教とユダヤ教は帽子やスカーフがよく似ている、もともと同じものが少しスつ変わっただけではないかという根拠ゼロの仮説を立てましたが、性格も同じであれば、ますます両社は元来仲の好い隣人同士だったのではと思うのですが、どんなものでしょうか。
アラブ語とヘブライ語には類似性はないのでしょうか。
両方とも右から左への横書きで、字体はわたしが見ても違いが分かるほどですが、漢字とひらがなのような類似性があるような気がします。
イスラムとイスラエルのイスラまで一致するのは偶然でしょうか。
IslamとIsraelなのでlとrがすでに違うと言われるかも知れませんが、西欧社会が両者の仲違いを知って使い分けただけかも知れません。
いずれにしても同じ神様を信奉する人たちですから、近い将来に両国の問題は解決されて、わたしはガザの地に足を踏み入れることを期待しています。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/20 Thu

試写していいですか?

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ヨルダンやパレスティナで時折見たり聞いたりしたのが「ShiSha」でした。
わたしはレンズの「試写」をすぐに連想しましたが、喫煙具が並んでいて、その字は「死者」に替わりました。
ShiShaとは水タバコのことだろうと想像できましたが、興味が無いので放ったらかし、今になって思いだして、調べてみることにしました。
やはりウィキペディアにシーシャという項目があって、水煙管、水パイプとも言うと書かれています。
同様のものは中国で何度も見てこのブログに写真を載せたことがありますが、先月の旅でインドでも見かけましたし、トルコのレストランで吸っているのも目撃したので、アジア全般にあるようです。

先のウィキペディアによれば、シーシャは香り付けされたタバコの葉に炭を乗せて本体に溜めた水を通して吸引する器具だそうですが、水を通すため清涼感がありインドや中東などの暑い地域で普及したと説明がありました。
なるほどこういうものは地域性を反映するのだと感心します。
しかし、シーシャは吸引時間がたいへん長くなるので、紙巻きタバコ100本分の煙を吸い込むことになるのだそうです。
作例の男性は、たばこの害を認識せずにニコニコしていますが、長時間の喫煙によって脳に影響があると指摘されていて、頭が緩んでしまったのではと心配してしまいました。

たばこ以上に深刻なのが飲み物の問題です。
わたしはもともと1日2リットル以上の水分を摂ることを実践していますが、日本だとお茶類のバリエーションが豊富なことで摂取可能なのだと実感しました。
東南アジアから中東までずっと暑いエリアを旅したので、水はそれこそ毎日2リットル、3リットルも飲んでいましたが、水だけを飲み続けるのは辛いものがあります。
経済的な理由や常に売られていない可能性を考えて、1リットルか1.5リットルの大きなボトルを買っていましたが、これを持って歩くのは重量的な負担がありますし、購入時に冷えていてもその後すぐにぬるくなってしまいます。
変化をつけるためにインドやネパールではカフェやレストランでラッシーやフルーツ・ジュースを飲んでいましたが中東ではそのようなものがないばかりか、カフェそのものが見つからなくて苦労しました。
レストランにあるのはコーラばかりで、あまり好きではありませんが1日1本限定で清涼飲料水を飲むことにしました。
繰り返しになりますが、各種お茶のペットボトルが気軽に買える日本はありがたいなあと再認識します。

飲み物と言えば、中東のアルコール禁忌にも多くの人が困ることでしょう。
暑くて乾燥した中東ほどビールの美味しいところはないでしょうし、何よりビールがどこにも無いという事実が飲むことを渇望させています。
それは当地の人も同じなのではと勘繰らせる事実があります。
ヨルダンでもパレスティナでもあちこちの店で見たのがノンアルコールビールでした。
アルコールがダメならノンアルコールをということでしょうが、炭酸飲料はコーラやスプライトなどあるのに、ノンアルコールビールにするというのはやはりビールを飲みたいんだけど我慢していると考えざるを得ません。
同様に飲みたくて仕方なかったわたしは手製ビールをつくることにしました。
と言っても、上海で買っていた白酒のミニボトルのことを思い出し、件のノンアルコールビールを買ってきて少し混ぜてみました。
微妙な味でしたが、まあ、こんなものでしょう。
わたしはヨルダンでもパレスティナでもビールを飲んだことはすでに記載していますが、以前にモルディヴに行ったときにアルコール類持ち込み禁止でしたし、同様のイスラム教国は多いようですので、かなり意外な展開でした。

最後は食べ物のことですが、わたしのような短い滞在では大したことはありませんが、駐在者などの長期滞在では死活問題なのではと心配になります。
ヨルダンやパレスティナのレストランには一般に2種類のタイプがあります。
ひとつは、一般的なレストランですが、これがどの町にもあまりなくて、コメが食べられるレストランをと注文をつけて探したら、大きな町にも1軒程度しかないように思えました。
もうひとつは、アラブ式ファストフードであるシュワルマ(トリ肉などの塊が回転するバーに付けてあって、包丁で削った肉を食べる)などの肉をサンドイッチにして食べる店です。
ほとんどの人がテイクアウトするのでレストランとは言い難いと思うのですが、そのような店は必ず○○レストランと書かれていました。
このタイプのレストランはどこにでもありますし安いので、気軽にいつでも食べることができます。
しかし、インドのカレーもそうですが、前者タイプのレストランを見つけられないと、同じようなサンドイッチを1日3食とり続けることになってしまいます。
美味しいものですが、さすがにこれではすぐに飽きること間違いありません。

ガザの実家に招待してくれたマレーシア留学中のモハンメド君によれば、パレスティナは食事がとても美味しく、最高の食材は野生のウサギで、しかも何種類もの調理法があると自慢していたので、そんな食事に挑戦したくてガザを目指したのでした。
ウサギはわたしが利用したレストランのメニューでは見かけることができませんでしたが、ナブレスの市場ではカゴにれられた生きたウサギを見かけました。
食肉の状態で売られているならともかく、あんな可愛らしい動物は買って帰ってもなかなか捌けないんじゃないかと余計な心配をしてしまいました。
わたしは中国でならウサギ肉を食べたことがありますが、かの地でも高級食材でかなり美味しかったことを思い出します。
犬肉のように欧米からクレームが来ないのはフランスなどで食べる文化があるからで、クジラ肉もそうですが、自分たちの都合だけを押し付けるのはどんなものかと思ってしまいます。
いずれにしても、パレスティナの食事は期待が大きかっただけに、失望もまた巨大なものでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/19 Wed

アカバ湾へ、シリアの国境へ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
昨日の深夜に帰国したので、ブログは今日から1週間後にソフィアにUターンするまでの間、ドバイ~ソフィアの旅を振り返ってという内容になります。
旅の最中のブログは、旅日記ないしは旅の備忘録なので、本来的にはここで旅の考察を書き留めたいのですが、そんなに難しいことは書けないので雑学ノートを目指すことにします。
旅先では夜になって寝るまでのあいだ部屋のベッドにゴロンとなってとか、バスの待ち時間とか、そのバスの中で揺れと戦いながらとか、ブログの書き込みに集中してきましたが、外ではWIFIがないのはもちろん、ホテルでもWIFIが微弱で接続が悪いとなると、地図や地名などが確認できなくて記憶で適当なことを書いてしまうことがあります。
自宅では逐一確認できるので、記載内容の精度は高まっているでしょうし、ネタにも事欠かなくなって、入力がはかどるような気になります。

今回のルートは、ドバイからスタートしていますが航空機の遅延により滞在時間は僅かで、さらに航空券のトラブルで1日滞在できるはずだったオマーンに立ち寄れなくなり、実質的にヨルダンから旅が始まっています。
アンマンは、気候的に日本より過ごしやすく、西洋的な部分があって滞在しやすいという印象もあって中東にあってこんなに滞在が楽なのかと気付きました。
ヨルダンは東西・南北とも200キロに満たない小さな国なので、ぐるっと廻ってみたいと考えます。
しかし、宿泊していたホテルが悪く、オーナー兄弟とけんかしてほとんどどこにも行かないうちにヨルダンを飛び出してしまいました。
怒りで飛び出したというのは半分ウソで、ガザ行きという任務があったので早めにパレスティナに行こうと発想を切り替えたというのが事実です。

地図を見るとヨルダンは、エジプト、サウジアラビア、イラク、シリア、パレスティナ、イスラエルに囲まれていて、海は無いように見えます。
しかし、地図を拡大してみると、南端のわずかに数キロが紅海の細長くなった部分の北端に接していて、実は海があるということが分かりました。
その南端の町はアカバという名前で、紅海の細長い部分はアカバ湾となっていました。
アカバという地名は紅海の紅を連想させ、漢字で記すなら紅場としたくなります。
その紅場に何があるのか分かりませんが、地図を見ながら、ここへ行ってみたかったと後悔の念がよぎります。
ヨルダンで観光というと圧倒的に有名なのがペトラという地で、いくつもの時代に分かれる遺跡が群立する考古学者垂涎の地だそうですが、そもそもここに行かなければヨルダンに来た意味が無いのでとツアーに参加させようとしたホテルのオーナーと喧嘩になったくらいで、わたしにはもともと興味はなく、むしろそれなら絶対行かないと意地になっていました。
次に有名なのが死海ですが、以前に記載の通りここにはパレスティナへ向かう途中連れてきてもらって、湖水の中を歩こうとして泥に足を踏み入れずぶずぶと底なし沼のように沈んでしまいました。
異変に気付いたオーナーの弟に助けられましたが、誰でも浮かぶはずの死海で溺死するという不名誉から助けてくれたのが侮蔑していた彼からとは情けない話です。

もうひとつ地図上で気になったのが、北部のシリアと国境を接する部分でした。
この国境線は200キロくらいはありそうですが、まっすぐに伸びた直線で、このことから当地には国境ラインを引くための川や地形的特徴のない砂漠であることが想像できます。
砂漠と言っても砂の丘だけが見晴らす限り連なる鳥取砂丘のようなところではなく、岩やところによっては草木も見られるしかし広漠とした不毛に近い土地のようなところではないかと思われます。
そんな200キロの直線をシリアはISISからどのように守っているのでしょうか。
後藤健二さんとの人質交換にアンマンの結婚式場で自爆テロ未遂を起こした女性を解放するようISISから要求されましたが、シリアとの国境を防御しなければ同じようなテロリストの出入りが自由になってヨルダン政府は国民を守ることができません。
あるいはアンマンに潜伏されて、滞在中の外国人を北朝鮮のように拉致して連れ帰られれば財源が確保できるとも言えるし、ヨルダンの安全性は失墜します。
わたしは臆病なので国境に立ちたいなどとは微塵も思いませんが、優秀だと言われるヨルダン軍が国境警備している姿を遠巻きにでも眺め激励したいと思いました。

ヨルダンで話を聞く機会があったのですが、ISISが基盤としているような国は、国内情勢に問題があるところだとのことで、シリアに接していながらヨルダンがまったく安全な理由も、国内情勢が安定しているからにつきると説明してもらいました。
もうひとつは、シーア派とスンニ派の対立の問題で、ヨルダンやサウジアラビアなど安定している国は穏健なスンニ派が大多数だからとも聞きました。
シーア派のすべてが過激思想といった単純な話ではありませんが、イスラムの歴史を簡単に見ると、マホメット以降の指導者をどうするかを決める際、民主的に決定しようとしたのがスンニ派で、マホメットの子孫から選ぼうとした純血主義がシーア派ということのようです。
単純な事例解釈で申し訳ないですが、マホメットの子どもが5人兄弟だとすれば、長男を支持するもの、次男を支持するものと分裂して、敗れた方の支持者が過激思想に向かうということは想像に難くありません。
シーア派の女性に教育は不要との蔑視の問題もあるので、あらためてシーア派本来のコーランに基づく思想を全体が取り戻すよう切に願いたいと思います。

さて、今日の作例は、アンマンの中心部にあるローマ劇場です。
市内の子どもたちが引率の先生に連れられて、野外学習にやって来たようでした。
アンマンはからっとしているので日陰にいると日中でも涼しさを感じるのですが、さすがに照り返しのあるこのような場所はかなりの暑さを感じてわたしはへばっていました。
しかし、子どもたちは元気に動き回っていたので、あちこちに分散してくれて劇場のスケール感がより分かりやすくなったと思います。
また、逃げ回る子が多かった中で、彼女だけが唯一カメラの前で静止してくれました。
ところで、ボケているので分かりにくいですが、いちばん上にヨルダンの3人の指導者の肖像が大きく掲げられています。
先代のフセイン1世国王、現在のアブドラ2世国王、後継者のフセイン2世王子です。
いずれも世襲ですが、国民からの指示は絶大だそうで、彼らの求心力が政治を安定させ、つまりはISISから旅行者を守ってくれていることを考えると感謝しないといけません。
ちなみにフセイン2世王子は、FIFAの副会長を務めていて、会長のプラッターが辞任したことから次期会長になる可能性もあるようです。
それを聞いて思い出すのが北京オリンピックの時に物議を醸したハンドボールの「中東の笛」問題です。
ハンドボールはアジア連盟の会長がクウェート人でいろいろと問題が発生しましたが、サッカー界でも金銭問題に続いて不可解ジャッジ問題が発生しないか危ぶむ声が聞こえてきそうです。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/18 Tue

ワインならわたしたちにお任せ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ソフィアからどうにか無事に帰国しましたが、その過程でかなり間抜けなことをしでかしてしまいましたので、恥を忍んで記しておきたいと思います。
分からないことを確認せずにあいまいなままにしておくと失敗するということを身を持って体験した記録です。
今回の帰国は、ソフィア-アテネ-ドーハ-羽田(帰路は成田―ドーハ―ソフィア)という2回乗り継ぎの格安航空券で、ソフィア-アテネ間のみブルガリア航空、他はカタール航空という変則チケットですが、そういう奇妙なルーティングも失敗に影響していたようです。

ソフィア空港の荷物検査では、前の女性ふたりがずいぶんと大きくて驚いたのですが、ブルガリアの国旗とバレーボールの文字があったので、バレーボールのブルガリア女子代表チームの選手だと思われます。
帰国後、バレーボールのワールドカップが日本で行われるそうですので、彼女たちもわたしと前後して日本に行くのでしょう、身長190センチくらいの美女たちでしたが、声でもかけとけば応援に来てとチケットをくれたかも知れないと後悔しました。
その後、空港内のワインショップの店員さんが美人なので、足が止まりました。
ワインはブルガリアの特産の一つで、レストランで無名のハウスワインを1杯飲んだだけですが、フルボディの濃厚な味でこれは旨いと率直に思えるものです。
乗り継ぎでなければ買って帰るんだけどと残念で仕方ありません。

しかし、先ほど航空会社でチェックインした際、荷物はダイレクトで羽田まで行きますが、アテネのカタール航空のカウンターで羽田までを再度チェックインするよう指示されていたことを思い出しました。
ワインを買って箱詰めしてアテネで預ければ、問題なく日本に持ち帰れると気付いたのです。
美人の売り子さんにワインを買ったら箱をもらえないか聞いたら、箱ならいくらでもどうぞとのことです。
早速、彼女の助けも借りてワインを3本選ぶことにしました。
彼女の絶対のおすすめだというカベルネソーヴィニオンが2500円くらいだったので、わたしは900円ほどの2012年とこの店では古い方に属するメルローをチョイスすると、彼女はそれも美味しいと後押ししてくれました。
この店のブルガリアのワインの多くは1000円前後とリーズナブルです。
あと1本はコプリシュシティツァで飲まされたウゾーと同系列のスピリッツにします。
ワインは1晩で終わりですが、スピリッツならちびちび飲めば長期間楽しめます。

箱を取りに行ったはずの彼女が別のところから現れて、あれっと思えば、今度は箱を抱えた彼女がまた現れてわたしの眼が丸くなったところで、ふたりは声を揃えてわたしたち双子なのと言いながら笑っていました。
彼女たちは3本を袋詰めして3本用の段ボール箱を別にくれました。
その時カスタムがとうこう説明してくれたのですが、美人が急に倍に増えた動揺でわたしはロクすっぼ説明を聞かなかったようです。
これはチャンスとばかりペッツバールレンズを取り出して自慢し、彼女たちを撮影させてもらいました。
光線がとても悪いのをそのままにしたため顔が黄色くなってしまったのが残念です。
と言っても失敗はこのことではなく、舞台をアテネ空港に移してそれは起こります。

アテネの空港では入国審査の窓口が2ヶ所だけで、しかも1つはEUパスポートホルダー専用だったので、もう一方のカウンターに長蛇の列ができていました。
もう10時過ぎなので、怠惰なギリシャ国民はふたりを残して働かないのでしょうか。
ようやくいったんギリシャに入国して、そのままカタール航空のチェックインカウンターに向かいます。
手にしていたワインはここで預けるつもりだったので、袋を破って取り出し、箱に詰めてカウンターの職員にチェックインをお願いしました。
するとこの箱のままでは機内で預かることができない、スーツケースに入れてほしいと言われますが、カバンは羽田直行なので受け取れないと説明しました。
すると職員はソフィアの空港で買ったのなら袋に入っているはずだ、それを荷物検査で見せれば手荷物で問題ないと言います。
わたしは箱を開けて袋とはこれのことかと聞くとそうだとのことで、このとき初めて乗り継ぎがあっても液体物は封印された透明の袋に入れてあれば手荷物にでき、乗り継ぎがあっても問題ないということを知りました。
しかし、もう取り出す際に袋を破ってしまったと説明しましたが、職員の話では袋に書かれたワインなら大丈夫との返事です。
ちょっと信じがたいですが、もう破ってしまった以上、その職員の話を信用するしかありません。

出国審査を過ぎて、いよいよ荷物検査があり、本当にワインを持ち込めるか心臓がバクバク言うのを見透かしたように、ここの職員は持ち込むことができないと厳しい態度です。
チェックイン時に問題ないと言われたと抵抗しましたが、航空会社はセキュリティの責任者ではなく、それをやるのはわたしたちだとギリシャ人にしてはずいぶんと責任感が強いことを強調していました。
ここで廃棄する以外にありませんと言います。
薄々気づいていましたがそんなの当たり前のことで、袋が破れていてもいいなら、簡単にすり替えとか薬品の混入とかできてしまいます。
それで、わたしはどうしたか。
9.11の直後、機内に液体物の持ち込みが禁止されるようになったその当日のニューヨークだかパリだかの荷物検査の映像を思い出しました。
高価なワインやシャンパンが持ち込めないと知った多くの人が、その場で栓を開けてラッハ飲みしていました。
わたしも真似してカバンからコルクスクリューを取り出し2本を開栓して、同じようにラッパ飲みしました。
1本はスピリッツなので簡単に手で開きましたが、アルコール度数が50度近いので、こちらは軽く舐めるにとどめます。
わたしは酒には弱いので、2種のワインを5分の1程度ずつ飲んだだけですが、さすがに高かった方のワインの方がずっと旨く、あのツインビューティの言ったことは正しかったと納得しながら飲みました。
合わせればワインボトル1本近く飲んだのですっかり酔っぱらってしまいました。
それでも再度荷物検査の横を通ると先ほど廃棄するよう言った職員が冷たい目でわたしを見るのが分かり、恥ずかしくなったせいか顔が赤くなっているのが分かりました。
荷物検査を通ると免税店が並んでいますが、袋さえ破らなければ問題ないと知ったわたしが向かった先はもはやここに書くまでもないでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/17 Mon

日独同盟の夜

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
コプリシュシティツァの夜はっこう気温が下がります。
日中は30度近くあったのですが、夜は15度を切っているような印象で、朝も少し冷え込みました。
冬場はかなり寒くなるのでしょう、窓はすべて二重窓になっています。
100年前の建築と聞きましたが、窓がその当時からこのようになっていたのかは聞き忘れました。
これから、旅は暑さよりも、寒さを意識することになるのでしょう。
ヨーロッパに入って、宗教や食事が変わったということはすでに実感していましたが、季節の変化も感じていくことになります。

町の中心の広場にステージが設置されていて、フェスティバルの民族音楽が歌われました。
歌詞内容は分かりませんが、伝統的な音楽はハーモニーが美しいので楽しく聴いていられます。
作例では男性がひとり写っていますが、歌のほとんどが女声のみのコーラスで、面白いのはかなり低音のパートも女性が歌っていて、それが新鮮に響くことでした。
午後1時にはダンスのパフォーマンスがあるというので大いに期待します。
というのは、土産物屋さんに可愛らしい女性店員がいて、店に入ったところ彼女はダンスに登場するとのことでした。
お父さんから手作りのジャムを買うと2016年カレンダーのカードをくれたのですが、その表紙が民族衣装の女の子で、これはと聞くとやはり娘だという返事で、そこまでしている娘のダンスに大いに期待していたのです。
しかし、非常に不運なことにお昼を食べていたところ、雷が鳴って激しい雨が降って来ました。
雨は30分以上も続いたため、ダンスは3時に時間変更になってしまったとのことです。
3時半のバスでソフィアに行くことにしていたので、ダンスのさわりでも見られるかと思っていましたが、このあたりがブルガリア的なのか、時間になっても誰も現れず、後ろ髪引かれながらバスに乗り込むしかありませんでした。

2時間半かかってソフィアに着きましたが、到着したのは昨日のイスタンブールからのバスが到着したのと同じ中央バスステーションで、あらかじめそれを想定して、ホテルを予約していました。
この旅ではホテルはなるべく予約しないポリシーですが、最後の夜ですし、ソフィアのような都会では予約した方が無難かと硬く考えました。
サフランボルで中国の女の子がしたのを真似して地図アプリを見ながらホテルを目指しましたが、2キロ近く離れていたにもかかわらず、ずいぶんあっさりと着いてしまって、モバイルを活用する旅の楽さ加減を実感しました。
予約したのは新しい経済的ホテルですが、建物は古いビルで、内装こそピカピカですが、ソフィアのアパートに住むような感覚が、昨日のゲストハウス同様正しい選択と思わせでくれます。
もうひとつ調べておいたことがあって、今日、土曜日はサッカーのブルガリアリーグの試合が開催されるので、感染したいと思っていました。
夕方に着いたので、チェックインするや否や少々慌ててスタジアムに向かいました。

ソフィアには4チームが在籍するそうですが、この日は3チームがアウェーなので唯一のソフィアでの試合になるレフスキー・ソフィアのゲームを見に行きます。
レフスキー・スタジアムというところで開催されると聞いてタクシーに乗ったのですが、到着したスタジアムには人がおらず試合の気配がありません。
警備員に聞くと、英語が通じないので正確に分かりませんが、連れてこられたのは国立競技場のようです(話題になっている日本のではなくブルガリアのです)。
後で調べるとバジル・レフスキー・ナショナル・スタジアムという名前で、わたしが行きたかったのはフットボール・クラブ・レフスキー・スタジアムだそうです。
こんな名前がそっくりでは間違えて当たり前ですね。
レフスキーのサッカーが見たいと訴えるとタクシーで行けと言っているようですが、警備員はわたしに通じているか不安なようで、通りかかった青年に英語ができないか聞いています。
青年はできると答えましたが、ちょっと様子が変です。
英語はできてもブルガリア語が理解できないのです。
彼がドイツ人だからで、聞くと、驚くべきことに彼もレフスキーの試合を見に来てタクシーでここに連れてこられたとのこと。
わたしの話を聞くと、警備員の説明を聞きながらタクシーでいっしょに正しいスタジアムに向かおうということになりました。

タクシーの中で自己紹介し合います。
彼はベルリンから来たマルコという30代の青年で、もともと出身はハンブルクから北海に沿ってずっと東に行った旧東ドイツの出身です。
地元にはハンザ・ロストクという、今では3部リーグに落ちてしまっていますが、サポーターが熱いことでドイツ国内に知られる名門クラブがあり、彼はこのクラブを愛し続け、さらにはドイツ代表、ドイツの各クラブチームのことに精通したサッカー小僧のようです。
ソフィアには仕事で来ていてアパート暮らしですが、まだ来てから1週間程度なので、ただいまソフィアを開拓中とのことでした。
わたしがドイツの青年とブルガリアで会ったということで思い出していたのが1994年のワールドカップ・アメリカ大会での準々決勝の対戦でした。
そのことを言うと、実は俺もそれを考えていたとマルコは言います。
試合の詳細はよく覚えていませんが、ドイツ有利と思われていた試合でマテウスのPKで先制したものの、ストイチコフの目の覚めるようなフリーキックで追いつかれて、延長だったかにレチコフの距離のあるヘッドで逆転されました。
そうわたしがはっきり記憶しているのはその時のレチコフの頭の薄かったことと得点後のどうだ、見たか言う喜びの表情によります。
そんなことをマルコと話していると、彼はわたしをサッカー通と誤解したようですが、たまたまあれが鮮烈だっただけで、他のことは一切覚えてないよと逃げるしかありませんでした。

ただしいレフスキー・スタジアムでは、前半だいぶ苦戦したものの、レフスキーが後半に2得点して余裕の勝利でした。
マルコはサッカー全体をよく見ていましたが、それ以上にサポーターが適切な時期に応援歌を歌ったり、選手名をコールしたりするのに感心してすばらしいを連呼していました。
このスタジアムは奇妙なことに半分改修中でメインスタンド側の半分に観衆が集まっていましたが、マルコの見立てで残念ながら5千人しか入っておらず、胸にスポンサーの無い対戦相手のモンタナは20人くらいしか応援に来ていないようでした。
そして、恐らく外国人で観戦に来たのは彼とわたしの二人だけでしょう。
そんなただ二人の外国人が違う場所で出会って、いっしょに観戦したというのはなんという運命のめぐり合わせでしょうか。
10時に試合が終わってふたりともお腹ペコペコです。
タクシーに教えてもらったレストランに入ればよかったのですが、他に客がいないのは不味いか高いからだと敬遠して、ふたりして散策してレストランを探しますが、満席だったり、閉店間際だったりでなかなか見つかりません。
ピザ屋があったので、最悪レストランが見つからない場合はあそこにしようと言っていたら、ナイスなと表現したくなるようなレストランが見つかりました。
どこがナイスかと言えば、ウェイトレスがみんなきれいでしかもミニスカートだったこと、ユニセフとタイアップしていて売り上げを寄付していること、そして料理はリーズナブルで美味しかったことです。
彼は1時間そこそこのあいだに大ジョッキのビールを3杯も飲んで、俺はドイツ人だからと頭を1杯でそれなりに酔っているわたしに恐縮していました。
わたしは、明日帰国ですが、来週またここソフィアを振り出しに旅を始めるので、またビールを飲みに行ければと思いましたが、何でもマルコのガールフレンドがベルリンから来てブルガリアの黒海沿岸を旅する予定とかで、再会は難しいかも知れません。
にも関わらず、彼は十台に見える可愛らしいウェイトレスのヴェロニカに、明日、会わないかと声をかけていました。
ナンパかと言えばけっしてそうではなく、彼女が来るまでにソフィアを知っておきたいので案内して欲しいとのお願いでした。
ヴェロニカは明日も仕事だからと断りますが、空いている短時間でいいからと引き下がりません。
一見するとやはりナンパにしか見えませんでしたが、わたしには分かります。
彼はとてもいい奴なので、来週訪れる彼女のためにただ必死になっているのだと。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/15 Sat

ポークとワインに舌鼓

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
国際夜行バスにはWIFIが付いていたので、ソフィアの宿泊を予約してしまおうかと考えていたのですが、思い立ってトルコ同様に古い町並みが残る場所はないかと検索して、コプリシュシティツァという町を見つけました。
ソフィアからバスか電車で2時間ほどで行けるようです。
こことソフィアに1泊ずつして帰国の途につくことにしました。
朝の5時、バスはいかにも郊外という場所に到着して、ソフィアに着いたぞと降ろされました。
バスステーションはないのか聞くと少し先に見えている建物がそうだと言います。
そこはトルコのバスステーション同様、いくつものバス会社のカウンターが並んだ建物で、コプリシュシティツァに行くバスを探しますが見つかりません。
インフォメーションのカウンターもありましたが、朝が早すぎて開いていないので自分で探すしかないのです。
外で清掃していたおじさんが外にあるカウンターだよと教えてくれたのですが、カウンターは閉まっていて、入り口の表示ではコプリシュシティツァ行きは9時発となっていてまだだいぶ待たないといけません。

バスの時間にはまだ3時間以上あるので、鉄道駅に行ってみることにしました。
路線バスやトラムが走っていますがどれに乗ればいいのか分からず、さきほどの掃除のおじさんに駅はどこだと聞くとコプリシュシティツァはバスで行けと言って譲りません。
9時出発まで待たなくてはいけないからと説明しますが、そもそも英語が通じていないのでよく分かってもらえないのです。
そこでコプリシュシティツァはあきらめて別の場所に切り替えたフリをして地名を告げて、強引に駅への行き方を聞いてみると、駅ならあっちと別の建物を指さします。
殺風景なところでバスを降ろされたので勝手に郊外かと早合点していましたが、ここは、中央駅と中央バスターミナルのあるソフィアの中心に近い場所だったのです。
かつての社会主義圏らしい洗練されていない町並みの風景がそのまま残っていたということが誤解の原因です。
駅の窓口で聞くと1時間後くらいに出る列車がコプリシュシティツァに停車するというのでチケットを購入しました。

ブルガリアの鉄道がまた洗練されていない困った乗り物でした。
駅には刑事がどこにもなくて何番線から乗ればいいのかまったく分かりません。
ホームに出れば分かるだろうと思い地下通路を通っていくと8番線くらいまであって、適当に上がってみましたが、やはりそこにも表示はなく、たまたま停まっていた列車にも行先などは書かれていません。
もっとも書かれていたところで、ブルガリア語はロシアと同じキリル文字が使われているので読めないし、切符には列車の番号はありますが終着駅が書かれていないので乗ることはできないでしょう。
エレベーターはなぜか動いておらずトランクを持って階段を降りたところで駅員がいたので、切符を見せてどれに乗ればいいのか聞きます。
さすが駅員は英語で対応してくれますが、さすがなのはそれだけで、何番線のどこ行きに乗るかなどということは分からないようで、どこかに携帯で電話して聞いています。
8番線だと言いますが、本人も不安なようでいっしょに電車のところまで行ってくれるようです。
どのように確認するのかと思ったら、列車に乗っている人にコプリシュシティツァに行くか聞いていて、そうだということで乗車しました。
そう教えてくれた乗客がどうやって調べたのか気になりましたが、その謎は最後まで分からないままでした。

バスでは2時間かかるという話でしたが、電車の方がずっと早く1時間30分ほどで着いてしまいました。
距離のある西の外れのブルガス行きでしたので、急行か特急だからでしょうか。
座席指定の切符でしたが、列車は空いていたので窓側の席に移って窓枠に肘をついてずっと寝てしまったので途中駅をどの程度通過したなどよく分かりません。
ただ車内アナウンスが無く、駅の表示もほとんど分からないため、到着時間をあらかじめ車掌に聞いて5分前にはドアのところに待機して駅名確認して降りました。
ブルガリアの鉄道は上級者向け乗り物というか、すべてがミステリートレインのようなものです。
違う行先の列車に乗ってしまったり、乗り過ごしたりのリスクがとても高いので、鉄道過保護な国から来たわたしたちには不便極まりありません。
掃除のおじさんがバスを勧めた理由がそれかと思いましたが恐らくもうひとつあるということに気付きました。
駅は町から10キロも離れていてバスに乗り換えなくてはいけないことが分かりました。
ただし、鉄道の時間に合わせてマイクロバスが待機しているようで、下車した6人全員がそのバスに乗ってコプリシュシティツァの町へ向かいます。

町はとてもコンパクトで、表示されていた地図を見ると今日の午後だけで町全体を巡ってしまえそうです。
トルコの古民家と少し似た、しかしより個性的で古そうな家が並んでいて、そのうち8家屋ほどは古民家博物館として公開されていました。
やはり宿泊してこれらをゆっくり見て回りたいので、荷物を置くためにホテルを探します。
町中には独立したホテルはなく、道路沿いのレストランにホテルを兼ねていると表示がありましたが、住宅の中にもゲストハウスとプレートを出している家がみつかり宿泊させてもらうことにしました。
わたしが泊まったのは築100年くらいだという平屋で、中の3室にそれぞれシャワーとトイレを設置する改装をしたそうで、所謂民泊とは違いますが、かわいらしい芝生の中庭があるなど、貸別荘のような味わいがあって気に入りました。
ソフィアから近いこともあって観光客は少なくありませんが、そのほとんどがブルガリア人のようで少なくとも東洋人の姿はなく、そのせいか歩いているとときどき地元の人からハローなどと声を掛けられます。
アップダウンのある街は石畳の道が広がっていて、その多くが古民家なのでとても風情がありました。
作例は、いちばん迫力のあった建物ですが、直線的な石の壁に木の曲線を組み合わせた優雅さは、この町の建築の多くに共通するところです。

小さな町をさっさと見て別の町へ移ったりソフィアに戻る手もありましたが、とどまったことでよいことが2つありました。
明日、フェスティバルがあるそうで、民族衣装を着た女性たちの歌や踊りが見られるというのと、今夜は古民家でヴァイオリンとピアノのデュオの演奏会が聴けるということでした。
イスタンブールに滞在するかで悩んだり、ソフィアに着いてからもここまでどうやって行くのか苦労したりしましたが、結果的には選択が成功して、頑張ってきたことが報われたことになります。
お昼と夜にはそれぞれ別のレストランに入りましたが、メニューにポークがあり、ビールやワインがあるのに興奮しました。
料金も安く、マッシュルームのスープ、自家製ソーセージ、チーズのついたパン、グラスワインで600円ほとでしたし、正直、トルコの料理よりわたしにはずっと美味しく感じられます。
また、ビールは店で買うととても安く、500mlの地元ビールは100円もせず、ペットボトルのビールがあったり、2リットルの巨大なビールも普通に店頭に置かれています。
夕食後、ビールを飲もうと買いに行ったら、店の横で盛り上がる若者グループにつかまりました。
酔っぱらいですし、英語が通じませんが、何だか分からないうちに彼らの中に座っていっしょに飲んでいました。
イスラム圏の呪縛から解放されたからか、いつもなら避けて通る酔っぱらいのノリに合わせて、歌まで歌わされてしまいました。
酔っぱらいの騒ぎ方や歌いたがることなど、こういう感覚は世界共通なんだなあと実感します。
飲んだのはウーゾというアルコールが50度くらいの強い酒で、これを乾杯してはストレートでぐいぐい飲むので、あっという間にこちらも酔っぱらってしまいます。
彼らはチェイサーも合間合間に飲んでいましたが、よく見るとそれは水ではなく、ブルガリアらしいヨーグルトだったのには感心してしまいました。
【Alpha7/Leica Sonnar 5.8cmF1.5 F1.5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/14 Fri

ここはすでにアジアになく

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
タルソスの町並みが気に入ったので他にもそんなところがないかと検索すると、シブリヒサルという町がやはり古い家が多く魅力的だとトルコ政府観光局のサイトに記載されていました。
この町の紹介で気に入ったのは写真が無くて、文章だけではどんなところか分からなかったことです。
その文章も日本滞在歴が長くて日本語は完璧に話すけど、文章を書かせるとやはり日本人が書いたのとは少し違うなと気付かせるもので、その微妙な拙さが旅愁を誘うようでまた気になりました。
アンカラからそう遠くないとのことで、アンカラへの行き方をホテルに相談すると、隣の旅行代理店に聞けばと言われアンカラ行きのバスに乗りたくて、できればそこからシブリヒサルへの行き方も調べてもらえるとありがたいと相談すると、ここメルシンから著効で行けるとのことです。
バスチケットを買おうとしたら、ウチは航空券専門なのでバスはバス会社に行ってと言われました。
アンカラまで飛行機で行くと思ったホテルマンの誤解で、わたしはよい情報を得ることができたということのようです。

バスターミナルに行くとシブリヒサル方面を通ってアンカラに行くバスが、シブリヒサルで降ろしてくれるそうで、出発は夕方6時半で朝の5時に着くとのことです。
これなら昨日行ったタルソスを再訪できるのでチケットを購入して、タルソス方向に行く路線バスに乗りました。
これまで乗ったバスは大型ワゴンなどをバスとして利用しているもので運転手か車掌に直接料金を手渡していましたが、路線バスはICカードを持っていないと乗車できないそうです。
当然、乗車拒否されると思ったのに、運転手はわたしの次の客にカードを2回タッチするよう命じてわたしを乗せてくれました。
その客のところに行って料金分を現金で渡そうとしますが、気にするなハハハと笑って受け取ってくれません。
言葉も通じないだけにきちんとお礼も言えず、ただただ申し訳なく感じるばかりです。

このバスは直行でタルソスまで行けば、時間ぎりぎりまでタルソスにいてバスターミナルへ直行しようと思っていたのですが、あと数キロのところで道を外れるらしく違う小型バスに移るように言われました。
運転手は昨日と同じクレオパトラの門のところで降りるように言い、昨日同様に歩いたのですが、夕方と昼日中ではだいぶ違います。
テレビの天気予報を見ると、トルコの多くの町が最高気温は35度前後まで上がりますが、最低気温は20度以下にまで下がります。
日中と夕方では歩くにしても大きな違いがあるのです。
散策はそこそこにランチを食べに昨日とは違うレストランに入ってみました。
非常に幸運なことに英語ができるスタッフがいて、きちんとメニューを説明してくれるのはありがたかったのですが、手の形を影絵のキツネにして写真を撮られライブ配信されると、トルコ中の仲間から同じポーズの写真が返信されてきて恥ずかしい思いをさせられました。
(筆者註、キツネの手の形はトルコではオオカミを指すそうで、何か意味があるらしいのですがニヤニヤ笑うばかりでそれを教えてくれませんでした)

彼らはこの後メルシンで用事があるそうで、メルシンまで送ってくれることになりました。
仕事が終わるまでの30分間、適当に散策して戻ってくることになりました。
やはり暑くてうだうだ歩いていると、オープンのレストランのオヤジさんとその息子と思しきふたりが手招きして写真を撮ってくれと言っているようです。
写真を撮ると、その液晶画像に喜び、チキンのサンドイッチをおごってくれました。
言葉は通じませんが、だからこそ、写真を撮ったり、ご馳走したりというコミュニケーションが成り立つんだということを教わったような気がします。
食べろと勧められましたが、いま食事したばかりでお腹いっぱいというジェスチャーをすると紙に包装してくれました。
これから夜行バスに乗るので食事をどうしようかと思っていましたが、これで大いに助けられましたし、バスの中で食べると確かに今までとは違う美味しさで、アツアツをその場で食べなかったことが少し悔やまれました。

レストランに戻るとふたりがメルシンに用事があるそうで、彼らの後部座席に乗ってメルシン方面へ向かいました。
ひとりは、タルソスの農産物関連の貿易商社の管理職で羽振りがいいのか、ボロい車が多く走るメルシンで新車のフィアットに乗っているのが目立ちます。
まだバスの時間に余裕があったので、カフェに行くことになりました。
海沿いの瀟洒な建物の中にお洒落なカフェがあって、ここではビールが飲めるので、みんなで乾杯しました。
よく言われるようにトルコは全面的に親日家の国で、一説によれば、それは日露戦争に勝利して仇敵のロシアを日本がギャフンと言わせたことに由来したとか聞きますが、彼らもまた日本が大好きで理由はよく分かりませんが中国嫌いでした。
ただ、ソウルのこともよく言っていたので、ソウルは韓国だというと非常に恥ずかしがっていました。
彼らの感覚では日中間の好い部分は日本に、悪い部分は中国にと勝手に解釈しているのかなと思いました。
用事にはまだ時間があるといって10キロ以上離れたバスターミナルまで送ってくれた彼らをわたしは他の国の人間と記憶違いしないように気を付けなければなりません。

作例は、タルソスの町でもいちばん立派と思われる建物です。
若いカップルがふたり道端に腰掛けていますが、メルシンやタルソスなどこのあたりでは同じように腰掛けている風景をよく目にしました。
キリスト教の聖人パウロにゆかりの遺跡がこのすぐ裏にあって、訪れる人は少なくないようです。
しかし、タルソス(彼らの発音はタルッソスと聞こえる)は名前からしてギリシャに由来してそうで、由来不明のクレオパトラ門も含めて、ギリシャ、ローマ、エジプト、オスマントルコ、セルジュークトルコ、キリストと多くの文明や文化がクロスした東西の十字路だったように思えます。
もしそうであるなら、私の旅もついにアジアからヨーロッパに移りつつあるということになります。
そもそもトルコってアジアなのかヨーロッパなのか、またそれを決める基準は何なのか、些細なことが気になり始めました。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/10 Mon

イスラム式リゾートライフ

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
昨夜遅くにアダナの空港に着きましたが、英語の通じない空港職員にどのように町に行けるか相談しているとドイツ人だという青年が助け舟を出してくれました。
ハスがあるというのですが、このバスはアダナの町には行かず、70キロ離れたメルシンというちころに行くそうで、アダナにはタクシーで行くしかないとのことです。
ドイツ人のマルクはメルシンに行くというので、わたしも彼に付いてメルシンに行ってみることにしました。
1時間ほどでメルシンに着くと彼の友だちがふたり待っていました。
マルクはトルコ系の二世ですでにドイツ国籍ですが、友だちたちはトルコ国籍でベルリンに出稼ぎに行っていてそこでマルクに知り合ったのですが、ドイツ人の差別にあって馴染めず、早々にトルコに帰国したということのようでした。
さらに彼らが近くにホテルを見つけてくれて、ドイツ人とトルコ人の協力により3時過ぎに宿に辿り着くことができました。

昼近くまで寝て、チェックアウトすると若いボーイがプレゼントだと言ってホテルのロゴが入った帽子や車用の芳香剤などをくれます。
彼もそうですが、3つ星が輝いているのが恐らく自慢のホテルだというのに誰もほとんど英語が通じません。
それなのにトルコ語のメルシンの観光パンフレットをもらって、ここには行くべきという表紙の遺跡へ行こうとしたのが失敗でした。
行き方を紙に書いてもらいましたが、3つ単語が並んでいて意味不明です。
通りに出て最初に来たバスにメモを見せると乗れと合図し、町の外れで停車していたバスを呼びかけ、今度はあれに乗り換えろと指示します。
車掌からチケット代が30リラというので何も考えずにわたしてしまいましたが、昨日乗ったアダナ空港からメルシンまでのバスの倍になってしまうので、そんなに高いはずはなく、他の乗客はそんなに払っているようには見えません。
運よくインテリ風の男性が近くの座席にいたので、話しかけると英語が通じて、正確な値段は分からないがあきらかに騙されていると忠告してくれ、何かあったのかと聞く老人にトルコ語で事情説明したらしく、それを聞いた乗客全員が怒り出したため、車掌が飛んできて22リラ返却してきました。
それが正しいとも分かりませんが、やはり車掌は騙そうとしていたようですし、わたしに気付かれても謝ろうともしないのがさらに腹立たしいです。

市内だと思っていた遺跡は、バスで1時間半もかかるはるか先の町でした。
と思ったら、終点でまた乗り換えるよう言われました。
このとき失敗だったのはホテルでもらったメモではなく、パンフレットの写真を見せたことでした。
跡で気付いたのですが、オスマントルコ時代の遺跡はメルシンの周辺部にたくさんあって、パンフレットの表紙にもなっている名高い遺跡はさらに先だったのですが、わたしが見せた写真を見たバスターミナルの係員は誤解して、別のところへ行くバスに案内してしまいました。
バスは今来た道をどんどん戻って、車窓から見えた遺跡のところでわたしを降ろしました。
こうなると、気付いたところでもはや戻る気は起らず、どうせ遺跡なんてどれも似たようなみのだと、そこを見てみることにしました。
もう3時になっていて、いい加減、お腹もすいていましたし。
近くのレストランはリゾート客でごった返していましたが、対応は良く、料金も高くありません。
トルコ風のピザだと勧められた料理を食べましたが、ビールはなく、アイランというトルコ式ヨーグルトドリンクがここではポピュラーなようです。

メルシンは地中海に面していて、ところどころビーチが海水浴場になっているてそれらにはホテルが併設しています。
海は透明度が低く、あまりきれいというほどではありませんが、リゾートとしての雰囲気は沖縄に似ているような気がします。
そんな中にオスマントルコの時代と思しき石の遺跡が点在しています。
遺跡が好きで海も好きでという人には大いにアピールする地で、作例は沖に浮かぶ島が城壁に囲まれている場所で、海に浮かぶ要塞のようで迫力がありました。
しかし、そんなところに来ても、イスラムの女性は水着はもちろんダメで、全身黒ずくめのままで気気温35殿の中、何しにこんなところへ来たのだろうと同情してしまいます。

帰りのバスの中でパンフレットを眺めていると、小さく古い町並みの写真が載っているのに気付きました。
トルコ語なので説明文は読めませんが、タルソスという町にあることは分かって、手とり足とり運転手に確認すると、どうやらタルソスに行くバスのところを通るそうで、そちらの運転手にこの日本人を連れて行ってくれと話してくれたようです。
そのバスも1時間近くかかってタルソスに着き、写真の場所はここからまっすぐ歩けと言っているようです。
すぐに大きな門の遺跡があって、クレオパトラ・ゲートという名前だと書いてありました。
それから道を訪ねつつ歩くと写真の町並みはすぐに見つかりました。
およそ100年以上前くらいの伝統的家屋がずらっと並んでいて、わたしには遺跡よりも魅力的です。
しばらく散策しましたが、すでに薄暗くなってきていてとても見きれないと観念しました。
明日また来ることにして、何軒かある古い家屋をレストランに改造した1軒でコーヒーを飲みました。
若者や老人など地元の人と見られる数組がビールを飲んでいます。
いちおうイスラム圏なのでアルコールは表面的にはご法度ということもあって、ビールを飲みたい人が集まる店なのかも知れません。
わたしもビールにすればよかったと悔やまれましたが、帰りの終バスの時間が分からないので、さっとコーヒーを飲んで早々に引き上げました。

帰りのバスでホテルの名刺を見せてどこで降りればいいか聞きましたが、運転手は分からずタクシーで行ってくれと適当な場所で降ろされました。
いちおうタクシーに聞いてみると1000円くらいのことを言われて、ちょっともったいないのでバスを探すことにします。
洗剤と歯磨き粉が切れたので雑貨屋に入るとどちらも家庭用の大きな奴しかなく、旅行用の小さいのを探しているという簡単なやり取りさえ通じないのにイライラします。
大きなスーパーを探してあちこち歩いていると、自分でも驚いたことにホテルの前の通りに辿り着いていました。
バスを降りたところから500メートル程度しか離れてなくて、タクシーは1000円と言ったようで騙されなくてホッとしました。
ホテルでスーパーを聞きましたがやはり大きなサイズしかなく、歯磨き粉はそれを買いますが、洗剤は巨大すぎるので、これもやや大きすぎるリキッド・ソープを買いました。
シャワーに使って、それで洗濯もしてしまうことにします。
続いて歩いているとレストランがあり、野外のテーブルでトリそぼろご飯のようなものを食べている人がいました。
美味しそうなので注文すると、見た目同様味も卵を乗せないトリそぼろご飯です。
今回の食事でいちばん美味しかったと言えるかも知れません。
サラダとペットボトルの水はタダで、250円ほどでした。
ホテルに戻って飲んだビールの方が少し高いくらいでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/09 Sun

交通機関ほぼ全運休

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
もうこれ以上ひどいホテルには泊まることがないよう祈りながらチェックアウトしました。
3時50分のフライトで、テルアビブからイスタンブールへ飛ぶので、今日でパレスティナともお別れです。
テルアビブの空港は警備が世界一厳重で、セキュリティチェックに時間がかかるので4時間くらい前に到着した方がいいと以前何かで読んだことがあり、あまりしたくはありませんでしたが、ネットでテルアビブ空港へのアクセスを確認しました。
エルサレムからバスで行くのが一般的なようですが、不思議なことに、テルアビブ空港からエルサレム行きのバスはあるのに、エルサレムからテルアビブ空港への直行バスは無く、鉄道に乗り換えなくてはいけないと書いてあり、その料金も記載があったのでATMで少額おろして交通費プラス軽食分の現金を手元に残しています。
ベツレヘムからエルサレムは何度か利用したサービスタクシーで行けると思っていたのですが、4人乗ったら発車する乗合タクシーでパレスティナとイスラエルの境界のところまで行き、ここから始発のバスに乗ってエルサレムに行きます。
途中から高速道路に入りますが、その直前に小銃を持った兵士が乗り込んできて全員のIDを確認しました。
このほかにもイスラエル側を通るサービスタクシーに乗ったりもしたのですが、そこではチェックが無く、どのような基準で兵士が待機しているのかが分かりませんでした。

エルサレムは、宿泊したところに近いダマスカス門のバスステーションが終点で、ここからならなじみがあり、トラムでセントラルバスステーションに出れば問題ないと安心しました。
しかし、バスの係員がトラムはないと言います。
理由はよく分かりませんが、恐らくユダヤの休息日である土曜日のためトラムは運休し、バスも行先によってはないか、かなりの間引き運転だそうで、ベツレヘムからエルサレムのバスにすぐ乗れたのはかなりの幸運だったようです。
それにしても困ってしまい、テルアビブ空港への行き方を聞くと、タクシーしかないと言われ、料金は6500円ほどが相場とのことです。
手元には3000円ほどしかなく、ATMへ行けばどうにかなりますが、それにしても休息日のせいで5000以上余分に払うのは馬鹿馬鹿しく感じます。
すると、テルアビブ市内へのサービスタクシーはあることが分かったので、時間に余裕があるので、バスの終点から鉄道なりバスなりでいけるのではと判断しました。
ところがこの運転手によれば、空港のゲートのそばが通り道なので降ろしてくれるとのことです。
ゲートまでは最初3300円で行くと言ってましたが、そばで降ろしてもらうと1000円ということなのでそれでよいとお願いしました。

40分でゲートそばに降ろしてもらうと、ゲートまで15分歩けばシャトルバスがあるとのことです。
楽勝かと思いましたが、炎天下の中で高速道路の路肩を荷物を引きながら歩くのは意外に大変でしたし、途中、ヘビの轢死体を見たのであまり路側すれすれは歩きたくありませんでした。
そのゲートに着くと警官に大声で呼び止められました。
わたしのパスポートを確認した後、こんな暑い日に歩いて空港に来るなんて何事かと思ったと笑いながら、水をくれたばかりでなく、シャトルバスなんてないのでと言って、通りかかったワゴン車を停めてわたしに乗るように交渉してくれました。
そのワゴンには10人くらいが乗っていて空席はありませんでしたが、助手席の男性が立ち上がってわたしに席を譲ってくれました。
もちろん固辞しますが、男性は聾唖者でわたしに理解できない手話を使って、笑顔で座るように言います。
ただ乗りさせてもらって、これでは申し訳ないとターミナルに到着してから荷物を降ろすのを手伝って、彼らとは別れました。

こんなに順調に来られるとは思っておらず、空港到着は離陸時間の5時間も前になってしまいました。
また4時間前に来いと言うのは過去の話のようで、チェックイン開始は3時間前とのことで、モノの高い空港でできるのはブログを書くことと本を読むことくらいで、気分転換にはなったような気がします。
わたしには、ディレイ癖が付いてしまったようで、またしても出発が遅れるとのことです。
2時間遅れとのことで、ペガサス航空というLCCでしたが、待っている間にドリンクの配布があったりしました。
立て続けに待ち時間ができてしまい、どうしようかと思っていると、ワゴンでわたしに席を譲ってくれた男性がいます。
どうやら同じ便のようで、先ほどはありがとうとあいさつに行くと、向こうも驚いて、言葉が通じればたぶんこれも何かの縁ですねのようなやり取りをしました。
するとそばの女性がわたしは彼の妹だと声を掛けてきて、互いに自己紹介になりました。
彼らは2人兄弟と奥さんと息子に妹、さらに友だち5人の総勢10名でトルコに旅行に行くとのことです。
イスラムのヘジャブを被った女性もいましたが、国籍は全員イスラエルとのことでした。
息子はわたしと同じFCバルセロナファンで、6月にバルセロナ旅行をして試合を見て来たとアイフォンで撮影したビデオを見せてくれましたが、ペドロがオーバーヘッドを決めた試合で、中継カメラが回っているのではと思うほどブレのないきれいな画像が、得点の瞬間に反転して自分の喜ぶところを映していたのが何とも面白く、映像を送ってほしいと思ったほどです。
10人全員と写真を撮ったり、フェイスブックのアドレスをもらったりして盛り上がり、初めてイスラエルの人と友達になったような気分になりました。

到着も遅れて夜の8時頃になりましたが、ちょうど機内からは日没と夕日を浴びたイスタンブールの町並みが見えてきれいでした。
遅れると分かって空港からのアクセスを調べたのですが、第2空港の方に到着で市街から遠く、ホテルも見るとさすがにイスタンブールは高かったので、一計を案じました。
そのまま地方のどこかに飛んでしまおうというものです。
格安航空券検索サイトでは、イスタンブールからトルコまでという検索ができて、トルコ国内の就航都市の一覧が料金付きで表示されます。
グーグルマップで位置を確認しながらあたっていくと、アダナという町が遠い割に6500円ほどと安く、ついでにホテルも確認するとイスタンブールの3分の1以下で、最初の行先をアダナに決定しました。
ところが予約しようとしても、最後のカード決済のページではじかれてしまいます。
出発数時間前ということで価格が、徐々に上がっていて、アダナ行きでも早い時間帯は倍の12000円になってしまいました。
そうしているうちに搭乗の時間になってしまい、ついにチケットは買えず終いです。

バスゲートだったのですが、そのバスから、入国審査、バゲージクレームとすべて偶然にも先の10人のグループといっしょになって、何だかストーカーになった気分です。
わたしはアダナ行きを諦めていなかったので、国内線出発フロアへ向かうため、最後のお別れをしました。
どうぞ、快適で愉しい旅行を!
非常に残念なことにこのイスタンブールの第2の空港にはWIFIがありませんでした。
格安券は断念して、1万円台前半なら買ってしまおうと航空券発券のカウンターに行きます。
価格を聞くと、不思議なことに6800円と格安航空券とほぼ同額でした。
大いに助かりました。
10時45分発12時05分着というずいぶんと遅いフライトですが、それより遅い便がまだ2つあるのがトルコ人の夜行性を表していそうです。
ここで食事しないとと慌てて、パニーニ・ドネルというサンドイッチを頼んだら、900円もするのにレンジでチンの出来合い品でがっかりです。
世界3大料理のトルコでの最初の食事だったのに。
そうそうしょげてもいられず、急ぎ足で荷物検査を抜けて出発ゲートを確認するため、フライトインフォメーションを見ました。
そこには、またしても「Delay」と書かれていたのでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(4) | 2015/08/08 Sat

彼らにも酒が必要だった

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
朝早めにホテルをチェックアウトして、通りに出てみてびっくりしてしまいました。
昨夜はとても活気のあった町の中心なのに、店がすべて閉まっていて、人通りもほとんどありません。
今日が金曜日でイスラムの安息日だからのようです。
朝食は諦めざるを得ませんでしたが、サービスタクシーのステーションに行ってみると車こそたくさん停まっていますが、利用する客がほとんど来ないためシーンとしていました。
ベツレヘム行きを見ると誰も乗客はなく、これではいつになったら発進するか予想もできません。
その建物から市場が見えて、市場は開いているのが分かったので、どうせ時間があるしと向かってみました。
果物売り場があったのでバナナを買い込みました。
今日の朝食は500グラム100円で買ったジェリコー産のバナナです。

戻ってみるとサービスタクシーはほとんど客で埋まっていました。
わたしは前の座席を取っておいたのにそこには女性が座っていて、運転手から最後部の座席に座れと指示されました。
狭い後ろはご免だったのでそれだったら乗らないと断ると、運転手が何でたと怒って、間を取り成した次に出発する車で行くことになりました。
あとひとりで発車できるのにわたしが辞退したため、なかなか次の乗客が来ないで発車できず運転手がイライラしています。
すると後に出るはずの車の方が、いま出発するので乗ってくれと言ってきました。
電話で家まで来てくれと大口の依頼があったようで、わずかに遠回りでしたが、大人数が乗り込んで来たおかげで、先のサービスタクシーより早くベツレヘムに着くことができました。
さっそく近くのいかにも安そうなホテルへ入ると、やはりシングルは100シェケルだというので泊まることにしましたが、ここもかなりボロい宿で、受付の医大生だという女の子が親切でなければキャンセルしているところでした。
というよりはキャンセルすべきところを彼女の顔色をうかがってそうせずに後悔しましたが、近くにあった新しいホテルは400シェケル(13000円くらい)だというので、わたしにとっては選択の余地はなかったのかも知れません。

祭りは夜からだというので、適当に歩いてから昼食にしようと思いましたが、ホテルに限らずベツレヘムの物価が高くて参ってしまいました。
ラマラーで4シェケルだったシュワルマ(回転している肉を削いでサンドイッチにして食べる)がどこに行っても12シェケル以上なので、買う気が起こりません。
小さな市でモモとマンゴーを7シェケルで買ってきてボロホテルに戻って寂しく食べました。
今日はフルーツしか食べてません。
ツーリストインフォメーションと書かれている建物には、インフォメーションらしさがまったくなくてほとんど売店だったのですが、現地のオリーブオイルがS16と書かれていてこれは安いと買おうとしたら、16シェケルではなく16ドルだと言われました。
ツーリストインフォメーションを名乗りながらそれではペテンじゃないかと怒りをぶちまけるところでしたが、キリスト生誕の地でもめ事はいかんと冷静になります。

午後になってものすごい光景を目にしました。
生誕教会から広場を挟んで向かい側にモスクがあるのですが、大音量でアダン(コーランだと思っていたのですがモスクから流れてくるのはアダンというのだそうです)が流れると、商店街の人が一斉に通りに出てカーペットを敷いたかと思うと、列になってお祈りを始めました。
目の前がキリスト教会でそれを目当てにやってくる観光客に対抗心を燃やしているからでしょうか、長い商店街の列と同じだけの長さにカーペットが敷かれて、同じ長さの人の列が額をつけて祈る光景は壮観としか言いようがありません。
石畳が人畳になった瞬間を目撃しました。

一方でとても意外なことも報告しておかなければなりません。
パレスティナは恐らく全土が敬虔なイスラム教徒ばかりのはずなのですが、なぜかラマラーにはリカーショップがあってビールやワインなどが売られているばかりでなく、地元でアラックを製造して売っていました。
この店がやたら流行っていますし、店の中でカシューナッツをつまみにイスラエルのビールを飲んでいるイスラム教徒のおじさんと親しくなってしまいました。
さらにベツレヘムではビールも製造していて多くの人が祭りが始まる前から飲んでいました。
わたしも挑戦しましたが、暑かったのでラガーを飲んだのですが、酸味がやや強くてわたしの好みの味ではありませんでした。
スタウトとかペールエールなどもあったので、そちらの方が得意の醸造所なのかも知れません。
生まれてこの方アルコールを口にしていないというモハンメド君にこの事実を報告したら何というでしょう。
まだ、わたしがガザに行けなかったショックで凹んでいるかも知れないので、しばらくしてからお前の国は乱れてるぞと言ってやることにしましょう。

祭りはそこそこ楽しませてもらいましたが、バザーなどは物価の高さそのままに売られているものが高くて買い物できませんでした。
作例は、バザーのお留守番をしていた少女で、生粋のムスリムのパレスティナ人だそうです。
白人のような色白で二重瞼にはグレーの瞳が輝いていて、髪は自然にカールしています。
彼女は典型的なヨーロッパ人としかわたしには見えません。
日本人NPOの皆さんは、指圧のブースを出していてわたしも疲れをほぐしてもらいました。
さらには、日本人の女子大生がいて、旅行かと声をかけるとボランティアで来ていると言ってわたしを驚かせました。
パレスティナの中にはイスラエルに故郷を追われたパレスティナ難民が多くいるのだそうで、彼らを助けるボランティアですが、とくに紛争状態など緊張が続いた中で子どもたちの心のケアがたいへんな問題になっているので、その大切な役割をボランティアが担っているそうです。
わたしのカバンから物を盗って逃げたヘブロンの子どもたちのことを思い出しました。
彼らにも本当はボランティアが求められているのでしょう。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/07 Fri

100年前の工数の瓶

Perken Son & Rayment 16.5cmF5
ナブレスにどんな名所があるのか分かりませんが、旧市街の古い町並みはわたしには圧倒的で、何より観光客がいないので地元の人たちと自分とで町を共有しているような私物化感が気に入りました。
中世の建物が連なり、細い石畳の道が縦横に張り巡らされていて、どこにいても美しい町並みと出合え、観光客のいないリトル・エルサレムのような感じです。
朝からまた散策すると古い建物の内部を見せてもらったり、昨日は見つけられなかった階段からつながる別の小道を発見したりして、迷宮を彷徨うような、時間と空間を見失ったような不思議な気分を味わいました。

もう一度行こうと思ってもなかなかたどり着けそうもないような位置になぜか骨董品屋がありました。
いやむしろ古道具屋と呼んだ方がふさわしい、現地の廃屋から拾ってきたものを並べただけではないのかというガラクタが新しい持ち主が現れることを期待せずに待っている風情です。
ここに何かあれば、それこそ本当の掘り出し物と言えるでしょう。
やはり積極的に欲しいと思うようなものは何もありませんでしたが、気になるものが2種見つかりました。
ひとつは、アラブ的な装飾の入った真鍮のとても小さな壺のようなもので、店主が手に取って教えてくれたところでは、そのアラベスク風装飾部分を回すと外れてその先が中の液体に浸かっていて、それでマスカラを引いたのだそうです。
1950年ころのものと思ったより古く、真鍮製なので素材として魅力がありましたし、一目でアラブと分かる装飾も記念になります。
もうひとつは、ガラスケースに入っていたオレンジのビンで、口の部分が植物の装飾になった黒い金属でしたが、恐らく銀だと思った通り、店主の説明はシルバーでケースに入れてあるのはそのためのようです。
これも予想通り香水入れでしたが、男性用で、アールヌーヴォー風装飾に見えましたが、パレスティナで1920年代に製造されたものだとのことです。
前者が約700円、後者は3600円で、金額を気にすれば前者だけ買えばよいし、このくらいなら両方買ってもいいかとも思います。
わたしは、銀とガラスの香水入れの方が何となく気に入りました。
そのまま一輪挿しとして使えそうですし、アラブ男が使っていた香水入れなんて、なんとなく神秘性を感じます。
マスカラ壺は、次に現れるであろう旅行者のために残しておいてあげましょう。
価格交渉しましたが、600円ほど下げてもらって、ちょうど3000円で買えました。
よく考えると1920年なんて古いものとは考えにくいですが、ホテル代より若干下がったのでまあいいかという気持ちで手に入れました。
店を出て、こんなところに見つけた骨董品屋の証拠写真を撮ろうとしたところ、店主がカギを掛けて出て行ってしまいました。
まさか今日は1点売り上げがあったので商売終了と考えたのでしょうか。

収穫を大切にトランクに仕舞って、サービスタクシーでラマラーに向かいました。
サービスタクシーというのは8人乗りのワゴンタクシーで、行先が決まっていて乗客がいっぱいになったら出発する乗合バスのようなものです。
バスよりは少し高いですが、タクシーよりはずっと安いので、パレスティナ人の足として活躍しています。
今日はベツレヘムに行くつもりでしたが、またホテルがひどくてトイレ掃除を依頼されるのはごめんでしたし、ラマラーのホテルは設備が新しく電話などで世話になったので、宿泊はここにして、日帰りでベツレヘムを往復することにしました。
ホテルに着くとまた来たのと歓迎してくれ、わたしもおじいさんとツインに1泊しただけなのに我が家に戻った気分でした。
ここに来たもうひとつの理由は、衣類の洗濯でした。
ランドリーが見つけられないでいたので、トランクに入れっぱなしだった中国で購入した洗剤で洗って干しておけば、ベツレヘムから戻るころには乾いているでしょう。

またまたサービスタクシーでベツレヘムへ向かいます。
サービスタクシーの座席は先着順で最初の到着だと助手席に座れて快適ですが、長らく待つ必要があります。
一方、最後のひとりだと最後列の真ん中の席で、両隣がいかついアラブ人だとたいへん窮屈な思いをしなければなりませんし、みんな運転が荒いのでうっかりすると酔ってしまいます。
いちばんいいのは客が集まる人気路線で、後ろの座席になりそうだったら、1台やり過ごしても次のがすぐに来て10分もすればいっぱいになるでしょう。
ベツレヘムはあまり人気路線ではないようで、なかなか人が集まらず20分以上待つことになりました。
キリスト生誕の地として生誕教会いうのがありますが、アブラハムの時、ブッダの生誕の地同様、これといった感慨はありません。
誰だと感激するとかということよりも、長い旅行で価値観のようなものがマヒしてしまったのかと心配になります。
とても美味しいものでも毎日繰り返して食べれば、そのおいしさが分からなくなってくるようなものです。

ここには面白いものがありました。
スターズ・アンド・バックスいう某チェーンカフェとそっくりのロゴを使ったカフェがあり何だこりゃと笑ったら、しばらくさきに、スター・バックスがありました。
こちらの本物はスターズ・アンド・バックスにクレームは付けないのかと思ったら、この本音のそっくりの方の壁に大きくメニューが書かれていて、最初がネスカフェになっていました。
どうやらこちらも偽物のようです。
他にはサブウェイもありましたが、これには小さく1stと書かれていてファースト・サブウェイが正しい店名のようです。
もちろんロゴはサブウェイと同じもので、メニューは確認していませんが、サンドイッチ屋であることはまちがいありませんでした。
KFCもあったので、じっくり観察しましたが、こちらは偽物の証拠がつかめませんでした。
けっこう繁盛していたので、唯一の本物か、精巧な偽物か、わたしには判別不可でした。

さて、作例は、偶然通りかかった中世風の鼓笛隊です。
バグパイプやサックスなどパレスティナの古典音楽ではなく、恐らくキリストゆかりのスコットランドから持ち込まれた音楽ではないかと思われますが、詳細はまったく分かりません。
この日は町のお祭りだそうで、バザーのような催しがあったかと思うと日本からのNPOも参加していて、驚いてしまいました。
あいにく間もなくラマラーに戻る終バスの時間でしたが、明日も祭りは開催するとのことなので、それなら明日はベツレヘムに宿泊してじっくり見てもいいかなと思いました。
夜は、またご飯が食べたくてレストランの場所を聞いて、ひとり繰り出していきました。
ジダンによく似たマネージャーが対応してくれて、彼のおすすめだというトリのモモと混ぜご飯のようなものを頼みました。
ヨーグルトのスープがあるというのでそれもオーダーすると熱い液体ヨーグルトの味で意外にいけました。
料理の方も申し分なく量が多すぎて半分も残したのが申し訳なかったのですが、日本人はこんなにも食べないのかとジダンに驚かれてしまいました。
だからでしょうか、少し金額をお負けしてくれました。
食事してディスカウントというのは、初めての体験でしたが、これもヘブロンで正直に支払したことがよかったのではと、これからも正直な旅を続けようと誓わせしめたのでした。
【Alpha7/Perken Son & Rayment 16.5cmF5 F5】
thema:ペッツバール genre:写真
Perken Son & Rayment 16.5cmF5 | trackback(0) | comment(0) | 2015/08/06 Thu
| home | next